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悟りという学問

皆さま、こんばんは
いかがお過ごしですか?

いつもご訪問してくださっている方々、
どうもありがとうございます。



「悟り」という学問について
書いてみたいと思います。

例えば釈迦の教え、イエスの教え。

それらは悟りの道です。

しかし、その教えに関する解説で
正しい解説をほぼ見たことがありません。


それらの教えは悟りの道であることは確かなのですが
なぜそれが悟りの道であるかを正しく知っている方は
ほとんどいないのではないでしょうか。

そして私は悟りの理論を解説できますが
もし私が解説をして
それを読み、理解した人がいたとしたら
その人は実は悟りから離れてしまうのでした。

よって私は解説しない方がいい
ということになります。

(だから世の中に
本当の解説は流通しない、=秘密となります)


例えで説明すれば(例えですよ)
解説を聞くと
ひとは理解しようとする心が働きます。

そもそもその理解しようとすること自体
悟りから離れる行為なので
解説があって、それを理解しようとする道は
悟りの道ではなくなってしまうのです。



「人の幸せのために頑張ろう」

など、一般的に善い事とされるものは
悟りの道ですね。


しかし、ここで
「人の幸せのために頑張ろう」という善行が
どういうものであるかを理解し
それを知って行動しては道とはなりません。

ただただ人を思いやり、
人の幸せをひたすら願い
そういう自分を分析、判断、評価せず、
ただただ人の幸せのために尽くすこと

これを(例えて言えば)純粋に行い続けることが
悟りの道なのです。


よって釈迦の教えもイエスの教えも
ただただ純粋にそれを実践できる人が
悟りの道を歩いていることになります。

実践できる状態では
これらの教えの本当の意味を分かることはできないので
もし、「意味がわかった!」と言ってしまった瞬間
まったく何もわかっていないことになります。


悟りの学問があるとしたら
それは学ぶことなく
ただただ実践することにあります。

学ぶことなく、というのは例えなのですが
学ぶことなく学び
あとは実践のみです。

ある意味、学ぶときは
実践開始前のみで
実践が始まったら
どれだけ純粋にその行為が行えるか
がポイントです。



自分の信じた道(もちろん善なる道)が第一で
例えて言えば釈迦もイエスも
捨てて
ただただ実践あるのみなのです。


よって悟りの学問は
あるけどあるのではなく
ないのだけどあるのですね。



ちなみに
悟りについて研究をすることは
悟りの道から離れてしまう可能性が高いです。

しかし、その研究をとことんやって
わからないことだらけになったら
それは大きなチャンスかもしれません。

「わからない」
これは正しい答えです。

そこまで行けるほど研究し尽くせたら
素晴らしい。

(ちなみに「わからない~」と
何もせずに言うだけでは全くだめです(笑)
研究し尽くしての言葉であるからこそなんです)

そこまでたどり着いたら
そこからどうしたらいいか、
きっとわかります。

わからなくなるのにわかるなんて変だね。(笑)


それが悟りの面白いところです。

(ここで「悟りは面白いんだぁ!」
とわかってしまってはダメですよ(笑)




私の書いた言葉たちに引っかかることなく
皆様が
ますます素晴らしい道を歩けますように。

(私の文は例えだらけ、なんです)

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あけましておめでとうございます!

お久しぶりです!

お元気ですか?



弥勒さん、コメントどうもありがとうございました。



皆さま、訪問ついでに
こちらに一言コメントいただければ嬉しいです


よい年になりますように!

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幸せな人生

みなさん、お久しぶりです!
お元気ですか?


いろいろ書いたけど
思い出してみれば
私の人生は
私のしたいことができた人生でした。


「喜んで」の実践は
私の理想のあり方を実現するための実践でした。

第2の道は
自分の限界に挑む実践でした。


どれも私が
「そうする!」
と決めてした実践でした。

私がそう実践することを
許してくれたこの世界がありました。

ありがたいことです。


どんな厳しい道も
人から言われて進むのでは
続きません。

私は自ら「喜んで」
厳しい道に飛び込みました。

物好きですね(笑)


この人生を最後にすると決め、
だからこそ精一杯
後悔することないよう頑張った道。

その険しかった道に感謝です。

(険しい道があったからこそ
頑張ることができました)


その道を歩き終えた私には
何もなくても幸せな世界がありました。

これもまた
私がこのブログで書いていた
私の理想とする世界でありました。

あきらめなければ
理想は必ず叶う、
達成するまであきらめなければ。

これは私がそうだったので
断言できます。


毎日、みんな同じように
時間は過ぎていきます。

その時間をどう過ごすかは
その人次第です。

自由ですよね。

私にとっては無駄な時間はなく、
どの時間も挑戦するためにある
貴重な時間でした。

、、挑戦ともいえるけど
実験ともいえる(笑)

今、この瞬間さぼって
あとで、
「あの時、がんばっていたらよかった!」
なんて言いたくありませんでした。

妥協なし(笑)


こんな私だから
私の道を人に伝えるときに
厳しい言葉になってしまう。


しかし、
私のように生きる必要はないよね。
当然。


優しく生きること

楽しく生きること


そう生きたければ
それが道になる。


私は厳しい道を好んで進んだだけです。


幸せに笑っている人を見ると
うれしくなります。

みんながそういられる世界であったらいいな
って思います。

辛いことがあっても
それを吹き飛ばして
笑顔でいられたなら

とても素晴らしいことだと思います。

そしてそれを極めるのなら、
大変なことがあるかもしれません。

なぜなら
吹き飛ばせないくらいの
大変なことが起こるかもしれない。

しかし、
自分の理想をしっかりと持ち
それを目指していくなら
そう言ってはいられない。

絶対に
大変なことを吹き飛ばして
笑顔でいるべきなのです。

これは私のかつての道にも共通する
生き方の一つです。


自分の理想を実現するために
(理想は善であるべきですよ、もちろん)
妥協せず生きていれば
いろんなことが起こった時に
どうしたらいいか選択を迫られるでしょう。

ぶれない理想が
確実にあるのなら
当然、
その理想に沿った選択をしていくはず。

私はそうしました。


その繰り返しは
確実に自分を前進させます。

どうぞ、どうぞ
あきらめないで
後悔ない人生を送ってね。

応援しています、いつでも!


@(*・ω・*)ポッ



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険しく厳しく、そして険しくなく厳しくない道

私は昔
独自の道をあるきました


なぜ、そんな道を歩いたのかというと

、、、よくわかりません(笑)


今思い出せば
険しく厳しい道でした。

しかし、そう生きていた時
険しいとも厳しいとも思ってませんでした。


では、なぜ
思い出せば険しく厳しい道だったのかというと

私の道を伝えると
私のやってきたことを伝えると
大変厳しい内容になるみたいだからです。


私のやってきたことは特別な内容はありません

しかし、私と同じ道を歩きたい
という人が万が一、億が一、いた場合
私のやり方をきちんとお伝えするとなると
厳しい内容になります。

単純なのですが
コツがあり
どの瞬間も怠ることなくやっていかなければなりません。

その実践そのものとなるくらい。


「自分(の思い)を捨てて心からなんでも喜んでしよう」

私の指針はたったこれだけでした。
これをきちんと行いました。
(しかし、はじめからうまくいったというわけではなく
できなかったら反省し、その繰り返しで
積み重ねていきました)

ちなみにこの指針にはたくさんの秘密があって
その一つをお伝えすると
「自分を捨てて」
のおかげで
厳しい道を厳しいと思える瞬間がありませんでした。

逆に
「厳しい」と思った瞬間
自分を捨てることができていないことになります。



自分が決めた善なる指針は
必ず道へと導きます。

自分の指針を決めるコツは
2重構造にすることです。

1つの実践を2重構造にするのです。


私の場合

まず、「自分の思いを捨てて」

そして「心からなんでも喜んでする」

という2重構造でした。


人は「~しよう」とするとき
純粋に「~」は実はできていません。

しかし、二重構造はそれを助けてくれます。

まず「捨てて」
=「捨てようとすること(にどうしてもなってしまう)」
=捨てられていないのですが
次の行動
「喜んでしよう」に続くことによって
捨てようとする意志が「喜んで」に移動し
結果的に捨てようとせずに捨てた状態で
「喜んで」をしようとすることができます。

そして「喜んで」をしようとするとき
それは純粋なる「喜んで」には
どうやってもなりえないのですが
次の「自分の思いを捨てて」が続くことにより
自分の意志が「捨てよう」とする行動に移るため
純粋なる「喜んで」に近くなるのです。


人には「思い」「意志」が必ずあり
常に働いています。
それが人です。

その意志によって
人は行動そのものになれないのですが
しかし、そのおかげで
行動を意志でコントロールすることができ
(それが実践できる素質を持ち
よって実践を全うするチャンスを持っていることになります
人として生きているだけで
それだけの特権をもっていることになります)

次の行動(意志)に思いが移ることによって
そのものに近い状態になることができます

また行動のきっかけに
人は必ず意志が必要です。
必ず必要。

その意志が「行動そのもの」になるのを
結果的にさえぎってしまうのですが
そこをかわす方法が
2重構造の実践です。


また、この2重構造の実践をし続けると
自然とコツがわかり
2重構造でありながら
1重構造の実践となります。

「捨てる」ことと「喜んで」が同時になるのです。

実践すればするほど
そのプロになります。

これはなんでもそうですよね。

極めたかったら
ただただ精進、訓練、練習をしていくことです。

精進、訓練、練習することなく。

怠ることなく実践し続けていくことが
大切です、
実践することなく。

自分が決めた指針を
途切れることなく実践し続けることが
大切になります。


これは延々と続くのでしょうか。

しかし、真に実践していれば
延々と続くのか?
といった気持ちにはなりようがありません。

なぜなら真に実践していれば
その都度純粋な「それそのもの」に近くなっていますから
そう思う暇がない

よって真の実践をすると決めて
その実践中私に
「この実践をずっとしなければならないのでしょうか?」
と問うた時点で
(=そういった思いが発生した時点で)
実践ができていない証明となり
不合格です。

なぜ、「今」実践しているときに
「ずっと」という今から離れた概念(時間)
が発生するのでしょうか


なんとなくわかっていただけたかな。


疑問を持つ時点で
感想を持つ時点で
これからどうなるのだろうと思う時点で
実践者としては不合格

もちろん普通に生きるのであれば問題ありません

私の通った道を歩くのであれば
ということです。


、、、しかし、私の通った道を歩きたい人は
億が一にもいないと思います

よって私のやってきたことを
残す必要は全くないです。

しかし億が一、いた場合のために
とりあえずここに書いときます。



ちなみに余談ですが
「いつまですればいいのだろう」
といった疑問が出るのを防ぐ一つの方法は
実践を始める前に
「一生やる」と決めてしまうことです。
(そのため実践内容は
確実に正確に時間をかけて吟味する必要があります。)

私がそうしていましたので
実践中、疑問は全く出ませんでした。

そして一生やっていくつもりが
実践のほうが消滅してしまい
(=自我が消滅)
結果的に終了となりました。

人生、何が起こるかわからないもんです。


ちなみにちなみに
「いつまですればいいのだろう」
という思い、問いは
いわゆる「悪魔の声」とも言えるもので
実践を妨げるものです。

この思いに耳を傾けてしまうと
悪魔の思うつぼです

悪魔の誘惑に負けない
強い意志が実践には必要となります


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簡単に悟れる方法とは?②

前の記事でこう書きました


まず、自分が生きていくルール
指針を一つ決めます。

言い方を変えれば
自分なりのポリシー
自分なりの守るべきこと
自分の行動のルールなど

ひとつだけ決めます。

あとはそれを必ず守って
自由に生きる
ということです。


たったこれだけです。


(詳しくは前の記事へ)


この生き方は
(今まで何度も書いたかもですが)
自分を守らずして
いつの間にか守られています。

「守られている」というのは
いらぬいろんな意識の餌食になりようがない
とも言い変えることができます


一つのルールを大切にし生きれば
自分の意識を
あっちこっちに行かせることがありません

ルールが道しるべとなります


人は必ず
何かの思いを常に持っています。

だから
「思いを持たないようにしない」
というのは
人として生きる上では
不可能なことです。

(ただし悟れば思いは消滅し、
思いは浮かぶことがありません)


よって人として生きる場合

どんな思いを持っているか

はとても重要なことです。

(「思いはない」と言えば
「思いはない」という思いを持っているのです

ではラピ。も「思いがない」と言っているけど
実はそういう思いを持っているんじゃない?
と思うかもしれませんね

私の状態は言葉で表すと「思いがない」
とも言えるのですが
それは数ある表現のうちの一つであり
よってその状態を
いろんな表現で表すことができます

なぜならそうだからです

言葉で表せないことを表そうとしたら
その状態の一部しか表せないので
逆にいろんな表現ができるのです)



私の場合
自分のルールを守って生きることで
それ以外の善くない思いから
いつの間にか守られていました。

それは「守られている」と実感した瞬間
守られない、というもので
なぜなら
「守られている」という思い自体が
すでに自分のきめたルールから外れるからです

自分の決めたルールを守る
→すでに守られている

守られていると思う
→守られているという思いに支配され
結果それに囚われている

支配という言葉は大げさでしょうか?

いいえ、そのようなことはありません。

では自分のルールを守ることは
その守ることに支配されているのではないか
と思われるでしょうか。

いえ、そのようなことはありません。


守るという思いは
意志でもあり
思いのひとつではありますが
その思いは自分の意志によって発するものです

守られているという思いに
「意志」はありません。
単なる「守られている」という思いに
支配されているだけです。

そもそも守られているという思いの状態では
自分の意志はどうなっているでしょうか。

すっかりよそに行ってしまっています。


よってこの簡単な悟れる方法の
もう一つのポイントは

積極的な意思を使って実践していく

ということです。


「自分のルールを守り続けよう」

自分の意志を常に働かせて
常にそのルールを守って生きていくことは
いつのまにか いらぬ思いを寄せ付けません。

自分があれやこれや
単なる思いを巡らせている間は
その思いに支配されてしまっています。

それは道ではありません。


あれこれ思いを巡らせるのは
楽しいでしょうか。

楽しいことを思い浮かべて
うれしくなるとか。

しかし、その途中で
嫌な思いが浮かんできたらどうでしょうか。

楽しい思いも嫌な思いも
同じ思いであって
その思いを巡らせている時に
一体、何が起こっているのでしょうか

その思いに支配されている状態で
ある現実の出来事が起こった時、
その「思い」の眼鏡を通して
経験することになります。

出来事に自分なりの解釈
自分なりの意味づけをしてしまいます。

それは
同じ出来事でも
喜ぶ人もいれば悲しむ人もいる
ということで証明できます。



プロフィール

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



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