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厳しさ

私は実践時
自分に対して厳しい判断をしていました。


はじめは
自分の中にある
「判断する心」に気づき
それが嫌で
それを消してしまうために実践をはじめました。

この時の私が嫌だった「判断する心」は
自分の周りの出来事や
自分の周りの方に対しての
判断する自分の心でした。

それを消したかった。

しかし自分に対しては
厳しい判断をしておりました。

自分の決めたことができなければ
それは「ダメだ」という判断をしていました。

その判断があるからこそ
常に自分の決めたことを
実践する選択ができたのです。

(ここで
「いいも悪いもない」という姿勢であれば
自分の決めた実践も
してもしなくてもいいという姿勢となります。
自分が決めたことを実践するために
正しい判断、ジャッジは必要なのです。

じぶんの決めたことをできたらよい
できなかったらダメだ

簡単に言えばそういった判断で
どっちでもあり、という姿勢では
何も得られない。

ただし私はこの判断は
決して自分以外の人には使いませんでした。
私の実践内容からしたら当然です。

「喜んで」をひたすら実践していたら
周りの人をジャッジする暇はないのです)


常に幸せな世界がいいと思い、
そうであれば自分はどう行動するかを考え
しかし世界に求めるより
まずは自分がそうであるべきだと考え
そう行動いたしました。

言い方を変えれば
常に幸せでない世界を
私の中から排除し続けたのです。

そして私の実践は
周りの世界に直接働きかけるものではなく
常に自分のあり方にこだわり
自分の理想のあり方ができていない場合
自分に対して
そうであるよう常に働きかけるものでした。

自分の理想に対して
常にそうであるよう
心がけました。


よって私の実践を活かして
何かお伝えすることができるのなら
それは厳しいものとなります。

私がそういう道を通ってきたからです。

楽する妥協ありの道は
私にはあり得ませんでした

よってそのような道は
私にとっては道ではない。


もし、ある時は精進し
ある時はそうでない時間のある日々をよしとするのなら
かつての私にはあり得ないことなので
そういう方には
何もお伝えすることはありません。


私は「24時間幸せ」がよかったので
私のあり方は常に24時間、でした。
(ふとできていないこともあったのですが
はっ!と気づけばすぐに修正しました)


そうであるときもあれば
そうでないときもある

それは嫌で

常にそうである

それが私のモットーでした。

初めからできたわけではありませんが
目標を妥協せず高いものにし
それを実践し続けました。

頑張れば頑張るほど
結果はそれについてきます。


例えて言えば

24時間覚醒していれば
覚醒していないときはない

といった感じで。(笑)


善なるこだわり
私は大賛成です。

どんな世界でも
プロであれば
妥協なき道であるはずです。

ま、これくらいでいっか

であれば
「これくらい」の成果しか得られません。




ちなみに余談ですが
私の実践は
「なんでも心から喜んでする」だったのですが
誰かから善でない頼み事をされたことがありませんでした。

実はそれには理由があります。

私の実践が
「自分を捨てて なんでも心から喜んでしよう」
という実践だったからです。

からくりはお伝えしませんが
この実践を思いついたことは
大変ラッキーだったと思います。

「自分を捨てて なんでも心から喜んでしよう」
をきちんと実践したからこその
その恩恵でした。

中途半端なく
きちんとしたからこそです。


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自分の真実を

どんな偉い人の言葉も
確かにそうではあるのだろうけど
それは自分の真実ではない。

その偉い人の言葉を
自分自身が試して
それを経験して初めて
自分の真実となります。


どんな言葉も
確かにそうではあるのだろうけど
それを単純に鵜呑みにせず

その言葉に共感したのなら
自分自身で試してみて
その素晴らしい言葉を
自分の人生で証明してはいかがでしょうか。


同じ言葉でも
人によって捉え方が違うので
実際経験して言っている人の言葉を
まだ経験していない人が
わかることはできません。

想像はできるかもしれないけど
それは想像です。

真実ではありません。


どうぞ、人生を悔いないよう
充実した日々を!


ちなみに言葉とは
もちろん善なる言葉に関してだけですよ。

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自分の思いを捨てて

「自分を捨てて」の実践は
別の言い方をすれば
「自分の気持ちを捨てて」でした。

ただただ自分の中に確実にある
「判断(=批判)する心」の存在を知っており
それがが嫌で消してしまいたかった。


究極、
自分を捨てるのなら
今自分が住んでいる環境も捨てて
自分を追い込むのもひとつの道だったかもしれません。

しかし、もし
環境を変えてやりとげることができたとしたら
環境のおかげであることが否定できなくなる。

私は自分の力でやり遂げたかった、
環境、周りに関係なく。
(自我がとても強かったのです、あきれるほどに(笑)

だからこそ、環境を変えず
そのままの状態で実践を始めたのです。

そして私がもし例えていえば出家したのであったのなら
私のやった方法は
普通に生活している方々には
使えないし伝えることはできません。

しかし、私は社会生活をしたうえで
実践を全うしたので
私の方法は普通の人にも使えると思います。


私の実践は自分の気持ちを捨てるものではあったのですが、、、

自分の気持ちを大切にすることは
正しい方向であれば
人に対して思いやりを持てます。

気持ちを大切にし
人の気持ちの動きなどを
自分に照らし合わせてではありますが
(=自分が基準ではありますが)
理解しているからです。

だから正しい方向での気持ちを大切にする生き方であれば
思いやりを持った人となります。
(正しい方向でなければなりません)


私は自分の気持ちを捨てていたので
まず、自分の気持ちがありませんでした。
(初めから完璧な実践はできていなかったので
もちろん、自分の気持ちがわくことはありましたが
その都度捨てていました)

自分の気持ちを大切にしている人の場合
自分の基準ではありますが
こうすればこういう思いになる
という基準があるので
人に対しても
こうすればこう思うだろうという予想ができ
思いやりある行動
相手に嫌な思いをさせない行動ができます。

思いの動きが予想できて
それに伴った思いやりある行動ができる
ということです。

しかし、私は
自分の気持ちを捨てていたがゆえに
一般的にある思いの動きが
私に当てはまっていませんでした。

例えば一般的に
人が嫌な気持ちになる出来事があっても
私は嫌な気持ちになりようがなかった、ということです。
(面白いのですが
言い方を変えれば
嫌な出来事は起こらなかったと言えた)


自分の気持ちを捨て続ける実践は
捨て続けるものでしたが
結果的に恩恵を得ていました。

なぜこの実践を思いついたのか
わからないのですが
(しかし、本当にじっくり考えました)
とてもありがたい実践だったと思います。


しかし、この実践が
すべての人にあっているわけでは
もちろんありません。


まずは人として生きるためにも
自分を大切にし
周りの人を大切にしなければなりません。


それをまず全うすると
必ずある一つの答えを得ます。

そこからまた道は開けます。



人生とはいろんなことの繰り返しではありますが
それを繰り返して感じることがあると思います。


私も自分の中に気持ちがあったからこそ
それに対しての実践が始まったのです。

もし、自分のその気持ちを
見て見ぬふりをしていたら
今の状況はあり得ませんでした。

まずは自分の気持ちに向き合う。

しかし、それは
まずは自分の周りに向けて
働きかける生き方があったからこそ
自分の気持ちも発生したのです。


外も内もベクトルは違っていても
その存在自体、同じものです。

内、外
振子のように人は揺れ動きます。

例えていえば
社会に出て働くことと
プライベート
どちらも必要であるように。

テンション上がることもあれば
落ち着く時間が必要でもあるように。


私はその振子に気づいていました。
そしてたくさんの人も気づいていると思います。

それに対して疑問に思い
それについて真面目に
人生かけて取り組みました。

その振子を終わらせたかった。

そしてついに
その振子そのものが消えたのでした。


問題が発生したら
答えが必ず存在し
それを解決する方法は絶対にあります。

確実にあります。
見つかるまであきらめなければ。


あきらめないこと


これは最も大切です。








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人としての幸せ

私は第三の実践として
人としての幸せを求めた実践を
しました。


これがあったからこそ
最後の激流に
なんの悔いもなく飛び込めました。


なぜそうだったのかは
人の数だけ答えがあるので
お伝えはしませんが
(伝える必要、ないですね!(笑)
言えることは
人として精一杯生きれば
必ず道は開けるということ。


または人としてきちんと生きなければ
次の扉は開かないということ。


大いに考え
大いに工夫し
悩むこともあるだろうけど
悩みさえも実は力になる。

悟りの話は
とてもマニアックで
どこかのよその人の話として聞くのは
面白いかもしれないけど
現実世界ではほぼ役に立たない。

なぜなら悟りの道は
現実からかけ離れた道だからです。


人として幸せに生きる道こそが
道だと考える。

その道があってこその
その先の道であり
人として求めるものを得るために
悔いなくやった人以外に
その道は開かれない。


私もそうでした。


人としての道は
素晴らしい。


どうぞ、皆さま
自分の理想とする幸せな道を
お歩きください。

自分が大好きな道を!

善なる道を!


あ、このブログの題名

大好き!ハッピー! な毎日☆

やった!(笑)


これやろ!



@(*・ω・*)ポッ



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体に感謝

人にとって体の存在は感謝です。
体は人を守ってくれているんです。


私が激流の時は
体の存在が消えかける時が何度もありました。
(これはまじめに実践すればそうなる)

これはまだ自我があった時の「私」を
守ってくれるもの(体)がない状態で
「何か」に引き裂かれることが何度もありました。
(激流時)

(その「何か」は決して言葉に表せないし
説明してはいけない。
説明したとたんにそれは「何か」ではなくなってしまう)

激流の状態は
言葉で表せるようなものではないのですが
たとえて言えば
自分と他の区別がほぼない状態で
それでいてまだ「私」が残っている状態です。

まだ私が残っているから
引き裂かれようとする状態が普通は怖い。

しかし、もしこの激流で自分を守れば
激流は終了となり
道は閉ざされます。

(守る自分がいたら=守ったら
自分が消滅するはずがない)

激流でも自分を守ることなく
恐怖であろうとなんであろうと
自分の決めた道をしっかりと進む、
「私」を守ることなく。

そして恐怖を感じることなく。

(ここで大切なのは
恐怖すらも感じる時間もないくらい
実践に集中すること。
恐怖は感じてはいけない。
恐怖がやってきても
これは恐怖だと言ってはいけない。
そんな隙を与えてはいけない。

私が実践中経験した恐怖は
経験していない。

恐怖はあったかも、だが
経験はしていない。

怖かったかも、だが
怖がってはいけない。

例えていえば、ですが)


もしかしたらこの世の中に
激流と言われる状態を経験した人は
結構多いかもしれません。

しかし、それだけではだめで
激流を渡り切らなければなりません。

渡り切ったらわかります。
それまでとは全く違う世界ですから。

激流が終わって元通りになってホッとする

これではまだ渡り切っていません。

ちなみにこの状態で悟ったと勘違いしている人
これまた割と多いかもしれません。

例えば光の世界を見ても
すべてが一体となった経験をしても
激流が終わっても
元の世界に戻ったら
その経験は単なる経験であり
悟ったわけではない

世界と一体となった経験をしたことがある
と言える状態は
今は世界と分離していますから
その過去の経験は運よく経験できたものであり
それを経験したからと言って
悟ったというのは違うのです。

ずっと変わらなくその状態が続いて初めて
悟ったと言える。
(これは例えです。
でも今悟ってないことがわかる
わかり易い基準です)


話は戻ります

激流時に自分を守ろうとする気持ちが
少しでも働いたら
例えて言えば
私と他を区別するのに必要な体の存在は
消滅いたしません。
できない。

悟りとは自我の消滅であり
自分と他の区別がなくなることですから
「私」が「恐怖」から自分を守ろうとしては
私と恐怖の境目は存在したままです。

私の場合ですが、
自分の決めたことを黙々として
恐怖が起こってもそれに負けず
淡々と実践し

しかし淡々と言っても大変でしたが。

そして恐怖と戦うこともいけない。

戦う相手がいてそれと戦っては
その相手は決して消えない。
存在する。

戦うことなくして勝つ。
そして結果的に勝つことなく悟る。(笑)

それは戦うことではなく
それ以外の方法を実践し
結果的に勝っててしまう道を歩くのです。
〈何度も言っていますね!)


私はここで「ラピ。」と名乗っています。

今私にはある意味、
例えていえば体があります。

私には体はないのですが
私以外の人には見えます。
(変な言い方ですが)

よって便宜上「名前」を使います。

私は(この「私」も例えで使っていますが)
ラピ。ではありません。

日常の本名も
便宜上使っていますが
私はそれではありません。

そして私でもありません。

しかし、体がある人にとって
私と私でないものとの区別は必要であり
そのために名前が存在します。

また体があったことにより
微妙に記憶もあります。

体に残っている、という感じで
私のものではありませんが

だから激流時の名残もたまに出てくるし
ちょっと前の出来事の記憶も微妙に残っているし。

しかし、それはもちろん
単なるそれで
そうである、ということではない。


悟れば
わからなくなるもわかるもなく
残ることなく残りものもない

そもそも「残る」、「残らない」という状態自体が
存在しない。


人は自分の記憶のおかげで
自分というものがわかる。

そして記憶がなくなることを恐れる。

悟れば記憶自体
必要ない。

記憶によって保たれるべき私がないからである

記憶が必要ない、とも言える

そもそも記憶ってなんだ??


書けば誤解を受けるかもですが
例えで書けばこんな感じかな。



体があることは感謝すべきことである。

体があるんだから
思い切り人として
精一杯頑張ろう。

それができる、ということは
素晴らしいことである。

人にとってそれは当たり前かもですが
それが当たり前でない世界も存在するんですよ。

人として体が存在する
この状態だけでも尊い。

それだけでもかなり運がいいんです。

そしてぜひとも
善なる道を

そして全なる道を


どうぞ、人を全うしてください
善なる道で

必ず善なる道で。





プロフィール

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



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