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お久しぶりです

みなさんいかがお過ごしですか?

ひと段落しましたので再開いたします。




しかしさて、さて書くことがありません。(笑)
あるのだけどないんです。



ところでファンさん、師匠との対話の中で
私にもコメントくださったみたいですが、、、


>これは主にラピ。さんに向けての言葉になります。
>私が「すべてを否定する」と言っていることと、
>ラピ。さんが少し前のブログで書かれている「すべてを捨てる」ことは、実質的にはほぼ同じことです。

いいえ違います。
捨てるとは否定も肯定もなく
「ただ捨てる」のですよ。

否定は肯定と表裏一体でどっちも同じなんです。

どちらかに偏っちゃだめですよ。

ただただ捨てるんです。無心にね。
否定も肯定もなく。

否定する暇があったら捨てるのですよ。
否定する時間を与えることなく捨てるのです。
わかりますか?
ただただ捨てるのです。

また、言い方を変えれば
否定することも捨てるのですよ。

単に否定するだけの行為では
至るのは無理ですね。

そこを超えなければなりません。


>ほぼ同じこと言っているのに、私が「まだ捨てられるものが残っていますよ」と言うと、ラピ。さんは強く反発されました。

反発した記憶がありません。

>その反発心の出どころには何があるのでしょうか?

反発していないので出所もありません。

>ラピ。さんが握り締めた何かの考え(囚われ)があるのではないですか?

ないですよ。
なぜあると思うのですか。

その「ある」はまさしくファンさんの状態を物語っています。
ファンさんにあるから
私に「あるように見える」んです。


>その三つとは、無常、無我、苦(一切皆苦)とされているようです。
>大変失礼な物言いで恐れ入りますが、tkさんとラピ。さんは、
>うえの三つの要素のうちの少なくとも苦に対する理解を得ておられないように思うのです。

私の通った苦の道は
簡単に公開できるようなものではありません。
興味ありますか?
でも否定のみのファンさんであれば
ここは「興味ない」ですよね。


>tkさんもラピ。さんも、こうやって私とやり取りする間も普通にやっておられます。
>感情の動きも読み取れます。

面白いなぁと思いました。

感情の動きが読み取れるのですね。
それはファンさんに感情があるからそう思うのですよ。

例えば風景を見る時、見る人によって解釈が違うでしょう。
夕暮れをさみしいと感じる人もいれば、
温かく懐かしく感じる人もいる。
しかし、風景に感情があるわけではない。

お分かりでしょうか。

感情の動きを読み取っているように見えることは
単にファンさんが勝手に意味づけをしているだけなのですよ。

ファンさんが私の感情だと思っているものは
単にファンさんの感情なんです。

ファンさんに起こっている感情。

私の感情ではない。

「ラピ。がこう思っている」というファンさんの思い込みとも言えます。

それがエゴのフィルターです。



私が幸せばかりについて書いている(ように見える)から
幸せに偏っていると思われているみたいなので
苦についてでも話しますか?

ええ、幸せについてでももちろんいいです。

それとも苦も楽もないことについてがいいですか?


否定するしかできないみたいですが
肯定ができない、、、ってことはないですよね?

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お返事


この記事のコメント欄についての
最後のお返事をさせていただきます。


。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。★。+゚☆゚+。


何度も書いていますが
私の言葉に意味はありません。

私の言葉に意味、概念がある と言う人は
その人が私の言葉に意味や概念を付けているだけです。

例えば「幸せそのもの」という言葉は例えで書いています。
なぜなら本当は言葉で表現できることではないからです。
意味はありませんし、意図もありません。
単なる例えです。


自我がある人は言葉に影響を受け、振り回されます。
事実、ファンさんは私が発しているように見える単なる言葉に
「否定する」などいろんな動作が生まれています。

自我がない人は
言葉は単なる言葉で、自我がないゆえに概念もないので
それに振り回されることがありませんし、
だからこそ、なにも影響されるものなく
よっていろんな言い回しができたり
言葉を自由に使えます。
なにもすることなく。
そして振り回されるものもなく。

自由にいろんな言葉を使うことができるのです。


ここで沢山言葉を書いているように見えますが
私が主張しているとファンさんが思い込んだ時、
早速「ラピ。は主張している」と
主張(否定?)し始めます。

>私は、ラピ。さんがまた、
>いつもの主張を始めるのをじっくりと待つことにいたします。
>そのときに、それを否定しにやってきます。

こう宣言されていますからね。

とても面白い現象です。


例えば。

ファンさんは「幸せそのもの」という単なる言葉にまず反応し、
単なる「し・あ・わ・せ・そ・の・も・の」という意味のない単語に
「それは概念だ」と意味を付けて
さらに「ラピ。はこの言葉を主張しているな」
という思い込みが起こり
さらにさらにそれに反応しています。
(忙しいですね)

私は何もしていないし、私に何も起こっていないのですが
「ラピ。が主張している」という出来事が
ファンさんの中で起こり(ファンさんの単なる思い込み)
否定しなくっちゃ!となるわけです。(行動が発生する)

ファンさんは否定するのですが
(こちらまったく否定されていませんけど。本人曰く、ですよね)
その否定を私にしても意味がないですよね。

私はそうではないのだから。
一体、何を否定しているのでしょう。

私には概念もないし、主張もないから
否定(?反論?)されても
「はぁ?」です。

それはファンさんの単なる独り言です。

自分が勝手に思い込んでそれに反応している、それだけです。


>また、ラピ。さんの言葉にはまだ自我のシコリが見えますし、
>感情も交じってガチャガチャとしやすいです。

どうして意味のない言葉たちによってこういう言葉が出るのかというと
私の意味のない言葉によってファンさんに
ファンさん風で言う自我のしこりが発生し
(自我のしこりって何?)
感情が発生してファンさんが
ファンさん風で言うところの「感情が交じってガチャガチャ」したからです。
(ガチャガチャって何?)

ファンさんの言葉はそのままファンさんを表しています。
ファンさんに何が起こっているのかわかります。
その言葉は単にファンさんの中身を表現しているにすぎません。
そのファンさんの言葉や行動について
私は全く関係ないのです。

こちらには何も起こっていないのだから。

そして否定についてですが
ファンさんは私を否定しているつもりですが
自我のない空っぽの私の何を否定するというのでしょう。
ファンさんが否定していると言うのなら
ファンさんの中に否定するものがあり
単にそれを否定しているだけなんです。


>そのやり口で自分はもう自我が無いと仰るのは、
>余りにも無理がありますよ。(^o^)

なぜこういう言葉がファンさんから出るのかわかりますか?


さて。

ファンさんはここにコメントを書き始めてから
私の質問にはほとんど答えていません。
(以前のコメントでもそうでした)
なぜでしょうか。

しかしファンさん的に何か突っ込みどころがあった時
(ファンさんの中で否定できるのもがある、思い込みが起こった時 など)
ここぞとばかりにコメントを残しますね。
わかりやすいです。

自我のある人同士との対話ならそうではないかもですが
(お互いに中身があるから)
なんせ、私は空っぽですので
ファンさんがコメントを書けば
ファンさんは私に言っているようにみえるかもですが
こちら、その「私」がいませんので
単にファンさん自身の中身をご披露しているだけ、
ということになるのです。

ちなみに披露されるのは
中身がある人であるからであって
空っぽな私は現れようがない。

中身ないから。
私の単なる言葉になにも中身はないんです。

自我のある方の言葉はその人の中身をご披露している、
そう見ると、なぜ次のコメントが出たのかがわかります。
簡単です。

>そのやり口で自分はもう自我が無いと仰るのは、
>余りにも無理がありますよ。(^o^)


また。

>心を静められて、仰りたいことを淡々とお話しいただきたいと思います。

ファンさんが意味のない私の言葉によって
心が騒いだからそういう言葉が出ます。
私はそもそも静か、というより乱れる心がありませんから
そう言われても「はぁ?」という感じです。

無い心を静めることなんてできないでしょう。
心騒いでない人に対して(騒ぐ心がない)
「心を静められて」って伝えることが
どれだけ変で独りよがりなことかわかりますか。
(このコメント欄で何度もあります。
ファンさんの的外れのアドバイス)

ファンさんこそ、冷静になるべきでしょう。

>心を静められて、仰りたいことを淡々とお話しいただきたいと思います。

ファンさんが私に書いた言葉は
そのままファンさん自身に当てはまるのですよ。

だからファンさんからいただいたコメント、
私に当てはまりませんので
ファンさんにお返ししました。

お返事



ファンさんは否定のみと言う。

私は否定も肯定もない。
よって否定も肯定も使い分けることができる。

否定のみなんて単に否定に囚われているだけ。
否定するという概念に縛られているだけ。

ファンさんはかなりの囚われがあるにもかかわらず
自由だという。

囚われにも気づけないほど
大きな囚われがあるのです。

ずばり、「自由」という概念にも囚われている。
(これだけではありませんが)

否定することが、自由だと思い込んでいるのでしょうか。


>>ファンさんは
>>どんな瞬間も幸せそのものですか?

>いえ、幸せなときもありますが、苦しくしんどいときが多いです。

>>苦悩から解放されていますか?

>苦悩から解放はされていませんが、苦悩にも、
>幸福感にも翻弄されることはありません
>ですから、そういう意味では、苦悩にも頓着しませんし、
>幸福も掴んだりしませんから、
>私はすべてのことがらから自由です。

苦悩のある自由って何でしょうか。
本当の自由はそんなものではないです。
がんばることすら必要なく
そのまんま、自由なんです。
(もちろんがんばることからも自由)

人それぞれ自由と言うのは自由ですが
そうである人が
なぜわざわざここに否定しに来るのでしょうか。

もっと自由な世界に羽ばたいたらどうですか。


「私は自由だ!」と言って
たまに悩むことがあっても
楽しく人生を過ごせている人は素晴らしいと思います。

人生楽しもうと
いろいろ工夫されている方や
がんばっている方は素敵だなと思います。

このブログに書いていることが
必要でない方、
たくさんいらっしゃいます。

どうぞ悟りなんて手放して
幸せに過ごしてください、
と思います。

否定のみの人生なんて
どこが楽しいのでしょうね。


ちなみにもしかしたら
ファンさんが嫌な気持ちになる言葉を書いたかもですが
それはファンさんの中で起こっているだけのことです。


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私たちは何のために存在しているのか?


みなさん、こんにちは!

鍵コメで質問をいただいたので
それにお答えします。

@(*・ω・*)ポッ




1. 私たちは何のために?
なぜ?存在しているのでしょうか?
(なぜ?宇宙ができたのでしょうか?
なぜ?人は意識を通して人生を生きなく てはならないのでしょうか?
なぜ?無のままではいられなくなってしまったのでしょうか?)


この質問は至ってないからこそ起こります。

まず、私の状態では
質問もないし、答えもない。

想像できない境地だと思いますが
そうなんですね。

なぜ?という疑問そのものがない状態です。


>なぜ?人は意識を通して人生を生きなく てはならないのでしょうか?
>なぜ?無のままではいられなくなってしまったのでしょうか?

よってこの答えは明確です。

例えですが、そうでなければ、
人は生きていけないからです。

無のままでは
耐えられないと思います、普通。

かつて私も相対的状態の時に
絶対的境地をほんのちょっと体験しましたが
まだ準備もできていなかったのもあって
まったく、いいものではありませんでした。

かつての私のそのちょっと経験した境地に
師匠がいる、と聞いて
明らかに私は悟っていないとわかりました。

その時は私がその経験した境地の状態ではなかったからです。

あの境地は
訳がわからない、としか表現しようがないものでした。

(今はもちろんその境地で
安らいでおります)



>なぜ?人は意識を通して人生を生きなく てはならないのでしょうか?
>なぜ?無のままではいられなくなってしまったのでしょうか?

また、別のお答えをするのなら。

私が好き放題生きていた小さい頃。

しかし、いろんな出来事から
ふと、自分にある衝動が起こりました。

「考えなければならない、考えるんだ」

その思いとともに
自我が芽生え始めた、という感じです。

誰もがみんな、
幼いころはのびのびと生きていたと思います。

しかし、ある時、自我が芽生え
あ~だこうだ判断したり、反省したりするようになります。
私もそうでした。

よって、普通の成長過程で起こりうるのでしょう、
この世界にいれば。

この地球上で生きていくのに
自我はある意味必要、とも言える。

よって、人は無我の状態を本能的に知っているので
自我があることに違和感を感じる人が現れるというわけです。

そして、私は自我があったからこそ
がんばることができて
今の境地に至ることができました、この世界で。

この世界に生まれただけで
それだけでかなりのチャンスを持っています。


自我がない状態→自我が芽生える
→その自我に挑戦する→自我消滅


ずっと自我がない状態だったらいいのに。
わざわざ自我なんて生まれる必要なんてあるの?
と思われるかもしれません。

しかし、自我があるおかげで
体があるままで至るチャンスがあります。

そして、自我がないままだったら
私のように自我の消滅過程、
どうやって自我が消滅したかが書けません。
(ま、別に書く必要はないのですが(笑)

そもそも無我のままであったなら
この問いはないはずですしね。

もし、自我のないままであるのなら
それはそれで何の疑問も持たず
ありのまま、それだけです。

でもすでに自我があるのですから
それを活かすしかありません。



2. ラピ様を含めこの先、私たちはどうなって、
どこに向かっていくのでしょうか?

最終的にどうなるのでしょうか?

(生まれ変わらないとすると、死んだあとどうなるのでしょうか?
無になるのでしょうか?
それとも無限に何かをなさなければならないのでしょうか?
その目的とは何でしょうか?)



この質問も至ってないからこそ起こるものであって
私にそんな問いがそもそもない。

「どうなるのだろう?」

この時点で想像が始まっていると思います。


>生まれ変わらないとすると、死んだあとどうなるのでしょうか?
>無になるのでしょうか?

質問してくださった方は
この問いの答えを知りたいのですよね。

この問いを発した人の中に答えがある
としか言いようがないです。

私にその問いの答えはありません。
=相対的答えはない


>それとも無限に何かをなさなければならないのでしょうか?
>その目的とは何でしょうか?

私の境地になれば今も何もしていません。
よって無限に何かをなさなければならない
なんてことはありえません。

しなければならない、なんて一切ない。

そもそも何もしていないから。


>その目的とは何でしょうか?

私に目的なんてありません。
ただそれのみ。

しかし、至る前は目的が必要ですよね。
(だから「目的は何か?」という問いが出るのです)
それが行動の原動力となります。


人は問いが生まれた時点で
答えを求めてしまうでしょう。

それが行動の動機になりますね。
それをいかせばいい。

かつて私にも問いがありました。

鍵コメさんの気持ちはわかります。

でも最終的には答えを得たのではなくてね
その問いそのものが消滅しちゃったんです。


ここでヒントですが
問いが消えるほどの精進をすれば
(=問う時間すらも精進の時間にする。
問う暇があれば精進する。)
いろんなことがわかる可能性があります。

これらの問いが出た時点で
まだ精進していない時間があります。

(問うてる間は精進できていない)

本気で進むのなら
問いが出る暇なく
精進しなければなりません。

問いが発生して答えを求める

この時点で実践者としては実はダメなんです。
実践者としては、ですよ。

そんな問いが起こってしまっては
至ることはできません。

なぜなら、
私の境地では問いも答えもない。

でもあなたには問いがあるという。

明らかに私の状態と違いますね。

でも問いがあることを普通だと思うのなら
問いのある世界にずっとい続けることになります。

そこを飛び越えなければ
私の境地には至れません。


何度か書いたと思いますが
私の境地を目指しても至ることはできません。

この境地にならざるを得ない方法が必要です。

問いのない境地に問いは持っていくことができません


問う時間がないほど実践し続ける。


これなんです。

実践者として本気であるのなら。


@(*・ω・*)ポッ


(ちなみに普通に生きていくには
問いがあってその答えを求める動きは
役に立つことが多いと思います。)



ちなみに私の境地は目指していない。
でもこの問いの答えが知りたい、という方へ。

または鍵コメさんの
私が知る必要のないことでしたら、
その理由についても教えていただけないでしょうか?

の答えとして。


そもそも私が何を伝えても
それは妄想の対象になってしまうだけなので
お伝えできません。

そんな妄想するよりも
目の前の大切な人のためにがんばるとか、
仕事をがんばるとか
もっとすることがあると思います。

時間を大切にしてください。

がんばることも妄想で時間を費やすことも
同じ時間。

時間を大切にしてくださいね。



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相対的実践


普通、人は相対的な世界にいます。

相対的でないふりをしても
どうやっても相対的な世界にいます。

例えば相対的な(=一般的な)「幸せ」は
必ずその反対の「幸せでないこと」も存在していて
人はその両方を行ったり来たり
していると思います。

「幸せでない」ことがなければ
「幸せ」も存在できません。

では絶対的な世界を求めるためには
どうしたらいいか。

今、相対的世界にいる人たちが
どうすれば絶対的世界になるか。

絶対的は相対的からしたら
想像はなんとなくできるかもしれないけど
それは単なる想像であり、
何の役にも立ちません。

だから想像上の「絶対」を目標にはできません。


幸せを例えに話します。

絶対的幸せを求めるとします。

この時、絶対的幸せを求めても
絶対的幸せを得ることができません。

なぜならその相対的で想像する絶対的は
単なる想像で絶対的ではないからです。

ではどうすればいいか。

今ある「幸せ」と「幸せでないこと」
両方ある世界で
絶対的な幸せの世界を望むのなら
今の時点で相対的な幸せを実践とするのです。

相対的世界であったなら
幸せを実践するとき
必ず幸せでないことも存在していますので
「幸せ」を「幸せでないこと」が
ある意味邪魔をすることになります。

それでもひたすら幸せを実践するのです。

シーソーのように
「幸せ」と「幸せでないこと」を行ったり来たりするのを
「幸せでないこと」に負けないように
幸せを実践し続けるのです。

幸せをとことん実践し続けたら
どうなると思いますか?


最高の幸せになれる???

いいえ。

相対的幸せは
「幸せでないこと」が存在して初めて
存在できるので
とことん幸せを実践して
「幸せでないこと」を許さずにいると
「幸せでないこと」が消える代わりに
相対的な「幸せ」も消えてしまうのです。


相対的実践で
一方に思いっきり傾いて
他方が存在できなくなると
両方消滅するのです。


私がよく
「今の世界を全うしてください」と言っていますがそれは、
「相対的世界で自分の理想を全うしてください」
とも言えるかもしれません。


自分の理想を叶えようとするとき、
その反対の想いがそれを邪魔するでしょう。

それでも負けずに
理想に向かって進み続けたら
その理想すらも消え、
その理想を超えた境地になるのです。

相対的な世界で、両端が存在する世界で
完璧に一方に傾いた
かなりの葛藤を伴う状態が
「激流」と言えます。
(本物の激流はなかなか起こりませんが
理論的にはそう言えます)

その激流の中、
それでもあきらめず
自分の理想をやり遂げれば
理想自体が消滅し、
実践終了となるわけです。

そしてそれは
相対的世界がいつのまにか消滅したことになり
思いがけず、
絶対的世界を求めることなく
絶対的世界になっています。

(行動の動機として求めることも大切かもですが
最終的には
求めることすら手放さなければならない)

相対的世界では
絶対的世界は想像できません。

だから今ある相対的世界を活かすのです。

この相対的世界にいるだけで
相対的実践ができるので
大きなチャンスを得ていることになります。



「善なる道を」

と言うとき

「善でない道」も同時に存在します。

それでも善なる道を歩き続けるのです。


相対はどこまでいっても相対であると言うのなら
それは一方に行ったり他方に行ったり
行ったり来たりしているからです。

それならどこまでいっても相対でしょう。

しかし相対もきちんと実践すれば
道となるのです。


ちなみに相対的「幸せ」が消滅すると
それまで幸せだと思っていた幸せを
超えた幸せになってしまいます。

相対的な幸せにも不幸にもなりえない境地。

幸せを超えていますから
幸せになろうとする必要もない。


絶対的幸せを求めるなら
今ある幸せを全うしなければならない。

今ある相対的幸せを否定して
想像上の幻の幸せを求めても
その幻を得ることはできないでしょう。

そもそもそれは幻だから
得ることはできない。

私は幸せを得たわけではないのだ。


急がば回れ。


しっかり、今を生きてくださいね。



※これは理論のほんのひとつの例えです。
しかしいろんな実践の基本事項を書いてます。


@(*・ω・*)ポッ


[Edit]

自分を信じること


激流とは煩悩との戦いとも言えるかもしれません。

激流は彼岸の前に必ずあり、
彼岸に渡るためには激流を通らなければなりません。

よって激流の起こらない実践では
彼岸へはたどり着けない、ということです。

私の場合は激流=「葛藤」なのですが
それに負けないほどの実践をして
至ることができました。

葛藤を無視し、それだけではなく
さらに自分の決めた実践をし続けました。

葛藤に負けず自分の決めたことを
やり遂げました。

そういった実践です。

(ちなみに彼岸のさらなる先が
涅槃だったと思います)


煩悩消滅は
煩悩を観察したり
煩悩に気づいてそれに目をくれない
という実践だけでは無理です。

煩悩だと思っているものは
実は煩悩(の大本)ではないので
煩悩に気づき続ける実践では
根本的なことを見落としてしまっています。

本当の実践とは
その気づき続ける自分を
さらに無視して
実践し続けることです。


ちなみに私の実践の始まりである

「自分を捨てて何でも心から喜んでしよう」

ですが
この「自分を捨てて」の実践を
長年し続けることにより
自分なりのあるコツを得ました。

それによってかなり私は助けられましたし
最終的な実践にもそれをいかすことができました。


何でも一つ決めたことをやり遂げることは
大きな力になります。

私の「自分を捨てて」は
自己流の不完全な実践ではありましたが
それでも自分を信じてそれをし続けることにより
私の中であるコツとして残りました。


やはり、自分を信じて
自分の善なる道を進み続けることが
大切だと思います。


そしてもう一つ、大切なことは
しっかり今生きている世界を全うすることです。

今生きている世界を後悔ないよう
思いっきり生きることです。

全うしなければ
次への道は開かれません。

ひとつづつクリアーしていかなければなりません。


あと、私に言い聞かせていた言葉です。

「大丈夫。私ならできる」

私はそうやって生きていました。


ちなみに実践は「善なる方向」でなければだめですよ。

@(*・ω・*)ポッ




プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



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