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日常の実践


私がやってきた実践は
日常で普通にしてきました。

山にこもったり、何か特別な時間を作ったり
する必要はありませんでした。


なぜならモットーは

「いますぐ実践!」

これだからです。



私のやってきたことはいろいろありますけど
ひと言で言うと

「自分の決めたことを
例外なくやり続ける」

です。



「自分を捨てて喜んでなんでもしよう」

を決めた時は
私が人に何かを頼んだとき
嫌な顔をされたら嫌だなぁ
という気持ちがありました。


それなら私は
何を頼まれても喜んで引き受けよう!
とその実践を決めたのでした。


ということは
言い方を変えたら実践は

自分がしてもらってうれしいことをする

かな。


ちなみに決心したら例外なしですよ。
自分が「こうする」と決めたことを
自分の生き方として守り通します。

たとえば自分が「喜んで」を実践して
誰かに軽くあしらわれても
またはそれが馬鹿みたいであっても
例外なく実践です。

この実践の途中に受ける大変なことすら
喜んで受け取り実践です。


決めたらまっしぐらです。


これができるかできないかが
分かれ道ですよ。


「とことん」


がポイントです。


実はこの実践は結果的に
たとえ自分を捨て実践していても
自分を捨てているからこそ、
いい影響を自分にいつのまにか及ぼしています。


私もその実践中
気づかないうちにいろんな恩恵を受けていました。


でもその恩恵はおまけで、
最終目的ではありませんので
それすらも手放して実践です。


私、悟りなんて目指してなくて
でも自分の生き方に疑問を持って
それを迷わず実践して、、、、。


そしてこんなところに至れたなんて
なんとも不思議れす。



@(*・ω・*)ポッ



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人間の限界



かつての私の人生のテーマは

完璧な幸せの実現

でした。



前にも書いたと思いますが
私はある意味実験台でした。




人はどこまで幸せになれるのか


人間はどこまでやれるのか



これを証明するため
自分自身を実験台として実践していました。


私の基本は
教えがあったらそのまま鵜呑みにせず、
自分で必ず確かめていました。

それが実践です。


教えを見たり聞いたりするだけではなく
それを実際行動に移すのです。


そして自分という人間が可能であれば
すべての人もできるのだ。

みんな同じなのだ。

だから私が経験して
それがみんな可能であることを証明するのだ。


私の限界が人の限界だ


なんて勝手に思ってました。




だからどんな状況でもあきらめることなく
しつこく実験していました。


そしてこの実験が
この世界の人の幸せを証明し、、
それを私自身がやってみるのだ!


な~んて思ってました。




正直、私が通った道は簡単、楽チンな道では
ありませんでした。

なってったって


限界に挑戦!


でしたかから。


過去を思い出すと
人ごとのようで


「よくやったよなぁ、、、。」


なんて思ってしまいます。





 (*・ω・*)ポッ





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スピリチュアルについて TK師の言葉



TK師が掲示板に書かれた内容を
ここでも紹介させていただきたいと思います。

ちなみにその元は こちらの掲示板の20、21です。


じっくり読んでいただいたらと思います。



反論がある方はどうぞ!

「いいや。このスピリチュアルで至れた!」
という人の話 歓迎します!


ここよりそのまま引用です。


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆



ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より


>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)

この教えの主だった使い物にならない個所を説明しますが、恐らく理論も何もわからない者の手による、
(エゴにとって)都合のいい部分のみのごちゃ混ぜの寄せ集めなのです。

聖典でも、賢者と言う人の言葉の中にも、
実践方法と達成した後の変化した楽な状態と両方の記述が出てくると思いますが、
この編集をした者たちは実践方法ではなく、賢者の言葉の達成した後の楽な状態の記述を拾っています。
例えば次のあたりです。

>すべてでひとつである。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


>すべてでひとつである。

このような言葉を「自分」が消えていないスピ系と思われる方が、
酔って良い気分になって振り回しているのを見たことがありました。
しかし、これは達成した者にとっては「自分」が消えているので、一つなのであり、
聖典や賢者はこれは実践方法としてではなく、達成した後の状態として語っているはずです。

達成する前の者が、自分の遭遇する「現象」と「自分」を対等な位置においていたら、
いつまでも「自分」は無くなりませんので、実践方法としては「現象」にたいして「自分」の立ち位置は下なのです。
「すべてでひとつである。」この言葉は実践方法としての方便ではありません。


>しなければならないことというものはない。

これも達成した後の者はこのようになると言う事であって、達成前の者は、
戒律など守らなければならない実践方法を「自分のしなければならない事として」決めて
確実に実践しなければ辿りつけません。


>善悪というものはない。

これも、以前、達成もしていない者が、酔っぱらって良い気分で、「善悪と言うものはない」と
この言葉を振り回しているのを見たことがあります。

しかし、これは厳密にいうと仏罰レベルの行為です、
釈迦の説いた善悪の相対を利用した実践法を無効にしてしまう、悪魔的な内容です。

ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

達成した後の状態として、同じ聖典の次の「善悪のはからいを捨てて、目ざめている人」の説明なのですが、
エゴに憑りつかれている者から、この達成した後の言葉だけが抜き取られたのです。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。


>信じる必要はない。

これも至った後の人の状態であり、これが至る前のスピ系かぶれらしき方の口から
自分が信じないための言い分けとして振り回せれていたように思います。
ちなみにラピ。さんは、「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」ので至れたのです。
至った後は「信じる」対象が無くなるので、「信じる」と言う行為そのものが無くなります。

参考までに次は聖典の至る前の人向けの実践方法の記述。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」


次は同じ聖典の信仰を激流を渡るための筏(イカダ)に譬えて、激流を渡ったから信仰(筏)を捨て去れと説いているのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


スピ系と思しき至ってもいない此の岸の者が「信じる必要はない」などと口にする事そのものが、
絶対に私は至れませんと言う証明のようなものであり、こちらからすると理論も何もわかっていない
彼らの態度は見るに忍びない。

>努力はしなくてもよい。

「無努力の境地」も、至った後の者の状態です。

スッタニパータ79
>努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。


聖典並び賢者の言葉をでたらめに拾い集めた結果、中には使えるものもあったとしても、
混ざりこんだ不純な部分が結果として、全体を全く何も使い物にならない内容にしてしまっているのです。
特に私が目にしたスピ系と思しき人たちは、私のここで取り上げた汚れた部分を教えとして
振り回す人を多く見たように思います。

このような言葉に振り回され続けた酔っ払いの方々、ご苦労様でした。
いつまでも寄り道して暇人そうに遊んでいないで、次に進んだ方が良いのかもしれませんよ。
真剣に求める人にとっては、この方々の取っている行為は迷惑千万なのです。

今は科学の時代ですから、昔に宗教と言う形で説かれていたものを、
同じ形ではなく「理論」で説かなければならない時代です。
これが言葉どおりの「ニューエイジ」「新しい時代」です。

>私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
>昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。
>
>苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。
>
>私の話しするのもこれだけです。
>
>全然変わってないですよね。
>
>そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。



引用ここまで。


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆



>ちなみにラピ。さんは、
「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」
ので至れたのです。

至った後は「信じる」対象が無くなるので、
「信じる」と言う行為そのものが無くなります。



との師の言葉ですが全くその通りです。

私が最後、激流を渡る決心をして
(実はこれは勝手に決心しました)
5月12日の夜から激流に一人で飛び込みました。

そして13日のお昼に師あてにメールで
激流に飛び込んだことを報告し、
そのまま続けて激流へ。(=ひたすら実践)

その13日の晩に至ることができました。



まさしく師を信じて、覚悟の上でした。

未知の世界に渡るのだから
何も予想ができないのです。
保証もありません。

でも師を信じて行く決心をしました。

=ひたすら実践です。


その実践ができなくなるまで
なにがなんでも永遠にし続ける、という
最後の決心でした。


そして至ると、その激流を渡っている「自分」が消えるので
至ったことが師匠に言われなくてもわかりました。

そしてその実践は
本当に最後の実践となりました。


師匠を信じて渡り終えた後は
もう、「信じる」対象がなくなります。

これも師匠の言われている通りです。


私はすべてをなし終えて
至りました。

(*・ω・*)ポッ


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スピリチュアルの定義について



スピリチュアルの定義について
よっすさんからコメント欄で質問があったので
お答えさせていただきました。

それをこちらにも
ちょっと付け足してアップしたいと思います!




ここで言うスピリチュアルの定義は
師匠が掲示板に引用されているような言葉が教えとなっているもの
だと思っていただけたらと思います。
ここにそのまま引用しますね。


すべてでひとつである。

偶然というものはない。

弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。

しなければならないことというものはない。

善悪というものはない。

信じる必要はない。

努力はしなくてもよい。

与えたものが返ってくる。

すべてのものは聖なるものである。

人には無限の潜在能力が備わっており、
自分で自分の現実を作る。

どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。
(現実は中立である)

アファーメーション(確認する)



(参照 →ニューエイジ:ウィキペディア)


これらが代表的なものですかね。

人を「(一時的に)楽ちんに幸せな気分にする教え」
とも言えるかな。
または「納得させてしまう教え」とも言えるかもしれない。

そのスピリチュアルな教えによって
幸せな気持ちになる、満足する。

その一時的な幸せが
実は悟りの道から離れることとなります。

なぜならその幸せや納得は束の間のものであり、
ずっと続くものではないからです。


「何かの教えによって幸せになれる」

確かに幸せな気分になる時もあるかもですが
これは幸せになった気になっただけのことです。

ここで言う「幸せ」は絶対的なものではなく、
「不幸せ」と隣り合わせのものです。

「幸せ!」と言えるのは
「幸せでない状況」が存在してるからです。

スピリチュアルな教えによる影響により
この幸せと不幸せの道を
行ったり来たりだけになってしまい、
至る道から外れてしまうのです。

その行ったり来たりは
至る道ではありません。


だから私たちが言っている「スピリチュアルな教え」とは

「幸せな気分になる教え」

「それで満足してしまう教え」


とも言えるかもしれません。


教えによる幸せや満足は一時的なものです。

教えだけでは至れませんから、教えによる幸せは
偽物だとお考えください。

その教えがなくなったら、
幸せではなくなるのではないでしょうか。

それは本物の幸せではありません。





ということで一時的な幸せをもたらす
スピリチュアルな教えは手放して
絶対的な幸せ実現のために
ひたすら実践をお勧めします。

人や物からもたらされた幸せは
一時的なものです。


ずっと続いたことがあるでしょうか?



ちなみにスピリチュアルのセッションも
一時的なものです。

されたことがある方はおわかりですよね?

その時は納得したり満足しても
時間がたてば元通りでしょ?


お金がもったいないよ。

(*・ω・*)ポッ





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何も知らない


私がいろいろ表現しているのは


「知っていること」を表現してるのではありません。


今の状態を表現してるだけです。



なぜなら

私、存在そのものが真実

であるからです。


私は何も知りません。


でも表現することができます。


それそのもの


だからです。


それそのものはどうやっても
知ることができません。


なぜなら「知る」対象があるのではなく

それそのものだからです。


(*・ω・*)ポッ




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悟りに至った人、募集!



悟りに至った方を募集します。


ともに対話しませんか?
お待ちしています。


掲示板 悟りの道


スレッド

「悟りに至った方たちとの対話」

まで!



こちらもお読みください→ 書き込みその1  書き込みその2


(*・ω・*)ポッ




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甘い言葉


甘い言葉はエゴを満足させて
エゴが静まって
それで終わりです。


それはエゴが静かになっただけで
まだエゴの存在があるので
何かをきっかけにして
またエゴが騒ぎはじめます。

このままでは
それのず~っと繰り返しです。

それが嫌なら
根本的解決が必要となります。


その解決法のひとつが

ひたすら実践

です。


エゴを無視して実践をやっていると
エゴは静まるどころか
大騒ぎし始めます。
(エゴ=自分の嫌がることをするのだから
当たり前ですね)


そこで実践をやめれば
エゴはおとなしくなるけど、、、、。

そうなってしまうと
一からやり直しです。



でも実践中、エゴに負けず
ひたすら実践していると、、、、。

(ここで役に立つのが「自分を捨てて」です。
今「自分」だと思っているのはエゴであることが多い。
それを無視し続けます。
これは私がやってきた方法です)


エゴを無視して実践できるかどうかが
突破のカギになります。

(*・ω・*)ポッ





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悟りの道


悟りの道は私の生き方そのものでした。

始めのきっかけは
自分の生き方を反省した結果 決心して実践。


次は自分の能力開発のために
ひたすら実践。


そして、絶対的な幸せを求めて
新たに実践。


最後は師匠の話をいろいろ聞いて
師匠のいる次元がどんなところか
行ってみたくて激流を渡る決心をしました。


激流を渡らなければ彼岸にはたどり着けません。

彼岸の前に
激流があるからです。



、、、、思い出すと
実践ばっかりやってるなぁ、、、(笑)



どんな時もしつこくあきらめず
結果を得るまでやってました。

できなくなるまでやってました。



そして最終的に彼岸に至って
実践する私が消えてしまったので
まさしく実践ができなくなっての終了でした。


できなくなるまで実践


これはなかなかの指標になると思います。

このスタンスでいれば
次から次へと道が現れ
おのずと進む方向が決まってきます。

勝手にそうなってます。

だから何も心配することなく
実践をがんばってくださいね。



この相対的次元はがんばることができる次元です。

至ればがんばる私が消えます。

だからとことんがんばるのです。
がんばれなくなるまで。


とことんやれば
幻想は消え去り、
何かが残ります。


今まであったけど
幻想があったため気づけなかったもの。


だから幻想を打ち砕く必要があります。


幻想を使って幻想を打ち砕く。


そんな感じかな。


(*・ω・*)ポッ




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師匠の言葉



師匠が掲示板に書き込んでくださいました。

みなさん、掲示板にもお越しください。 



(*・ω・*)ポッ 


悟りの道 掲示板 



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なにを実践する?


私の実際やった実践を紹介させていただいてますが
至る道はひとつではないので
私と同じ方法でなくてもいいわけです。

なので自分の納得する方法
がいいと思います。

自分が納得した実践であれば
迷いはないですよね?


しっかりなにを実践していくかを考えて
決めたらあとはもう、考えることなく
ひたすら実践です。


ちなみに「悟りたい」という動機での実践では
効果がないです。


最終的に悟りが目的だとは思いますが
ほんとうにそうなりたいのなら
悟りを目的にせず、
ただただ実践、それのみをしていきます。



実践に何を選んだらいいか。


前にも書いたと思いますが実践は
一般的に言われている「奉仕」や「いいこと」を
選ぶといいです。


実践は、この相対的世界だからこそできます。

相対的なことを超えるためのこととして
相対的なことを絶対的なこととして実践していきます。

たとえば「いいこと」と「わるいこと」があるとします。

「いいこと」は「わるいこと」があって存在できるのですが
(=相対的)
それを「いいことしかない」(=絶対的)
として実践していきます。

だから「いいこと」を
とことんしていくことが実践となります。


それなら「わるいこと」を絶対的とし、
それをとことん実践でもいいんじゃない?
と思うかもしれません。



でもどっちの実践がいいのかというと
遠回りをしたくないのなら

「いいこと」

を選ぶべきです。



なぜなら自分の価値観で
「わるいこと」を実践に選んだとき、
いつか、必ず自分の価値観により
「罪悪感」に出会うからです。


価値観も幻想ですが、
この相対的世界では幻想が
大きな影響を及ぼすことがあります。


余計な影響はいらないですよね?


「罪悪感」

この思い、発生させる必要はないし、
その思いは実践を妨げる原因となります。


迷わず、まっすぐ実践したいのであれば
罪悪感を発生させない、

「いいこと」

を選ぶべきです。

そしてひたすら実践です!!

「いいこと」を

まっすぐ、まっすぐ


実践れす!



(*・ω・*)ポッ





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自分を捨てて、何でも心から喜んでしよう。



ここでお勧めしている実践の

「自分を捨てて、
心から何でも喜んでしよう」


というのは、
私の小学校高学年の時のひらめきです。

その頃は、その実践の意味もわからず
悟りたいとももちろん思わず、
自分の生き方の決心としてやっていました。

だから人生をかけた実践でした。



この実践は少しでもやれば
何かは効果を感じると思います。

ただ、その感じるものは
この相対的世界でのものです。

いい思いも。そうでない思いも。

それで満足なら、それでもいいと思います。
それもある意味無駄ではありません。



実践を本当にとことんやったときに
絶対的世界の扉が現れます。


ただ、開かれるかどうかは
誰にもわかりませんが、、、。

保証はありません。

でも、やらなければ
扉すらも現れないです。


(*・ω・*)ポッ




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「真実の私」の誤解


私の大勘違い体験を元に書かせてもらいます!


よくスピリチュアルで

「真実の私」「永遠の私」

それとともにいる、ともに在る
とか言うのがありますね。


実はこの次元で感じてる「私」は
永遠でも真実でもない
相対的「私」です。


その「私」は意図しないといないでしょう?

「私」といることを選択しないと
ともにいられないでしょう?

「私」の存在を忘れてしまうこともあって
常に意識的に「私」といなければ
「私」はいないでしょう?


常に自分の意志を働かせなければ
一緒にいられない「私」は
真実の私ではありません。

意識を働かせなくても一緒にいる
と言えたとしても
一緒にいるという表現なのなら
それは真実の私と分離している「私」です。

一緒にいる

そもそもこの表現は
一緒にいる存在と離れているから、
分離しているからこそできるものです。


実は私はこの「私」と常にともにあると
意識ができるようになっていたので
これで私はある意味これがなかなかの境地だと
勘違いしてました。

明らかにその態度でした。


意識ができる「私」は
意識できるということですから
真実の私ではありません。

私と分離しているからこそ意識できるのであって
意識そのものではないから意識できるのであって
絶対的意識そのものとは違います。


自称悟り人の方たちは
この相対的「私」の段階の状態で
悟ってると勘違いされていることが多い。



実はその人の表現している言葉を見ると、
本物か偽者かわかってしまいます。


自称悟り人さんの表現する言葉には
「意図」「意志」「選択」などがあり、
常に「私」のある状態です。


至ればこの「私」が消えて
よく言われている「永遠の絶対的意識」
の状態になるのですが
至られていない方の表現にはしっかり
「私」がいる。


その「私」を永遠の私だと思っているのですが
本当の永遠の私の次元ではないので
表現しようとしても正しく表現できていない。


あと、本物の覚者の方の言葉を
勝手に解釈して
勝手に意味づけしている。

ご本人はまじめに
そう思って書いていらっしゃるのでしょうけど
残念ながら的外れです。


今のこの次元しか知らない人が
覚者の言葉をちゃんと理解できるはずがない。


同じ言葉ひとつでも次元が違うということです。


今、この相対的次元にいる方のできることは
その覚者の言葉を勝手に解釈して語ったり
自分の勘違いしている「私」がいる状態が
最高の状態であると思い込み語るより、

まず、実践して彼岸へお渡りください。



まだ渡れていません。

幻想が消えていません。



彼岸にたどり着いたときの状況は
何かが輝いたり、気づきがあったり
「そうか!わかった!」
ということではないのです。


実際、渡り終えたときの私の感想は

「何じゃこりゃ?」


ですので。


何かがわかったりするどころか
今まで知らなかった次元にふといたので
何も言葉にすることはできませんでした。


これは?いったい?



ただただその次元にいるしかできませんでした。


この私はいったい何?



いまだに表現できません。

なぜなら絶対的私であり、一緒にいるどころか
その私そのものであるから
分析したり、判ったりすることができないからです。


今、この真っ只中にいる状況は
やはりどうやっても言葉にできず
そうあるしかできません。



(*・ω・*)ポッ



ちなみにわかりにくい方は
「私」という言葉を「愛」に置き換えてみてください。

「常に愛とともに在る。」

愛と分離しているからこそ
できる表現です。



「光」や「真実」に置き換えてもいいかもです。

、、かつての私がそう表現していましたね。

すみません、、。

(;´▽`A``




[Edit]

自分を捨ててがんばること


自分の決めたことを


思いっ切りがんばってください!



とことんがんばって
がんばって
全てをふりしぼってがんばって、、、。


さて、最後に何が残るのでしょうか?



この答えは今はありません。

がんばるしかないのです。



だからとりあえず

がんばってね!



(*・ω・*)ポッ




ちなみに私が実践していたときに
ひとつの指針がありました。


それは
皆さんご存じのとおり

「自分を捨てて」

という言葉です。


自分を捨てるのだから
自分の心の声も捨てるのです。

「つかれた」
「もうしたくない」


そう思う前に
その声を無視するのです。

だから私は実践中
そう思った記憶がありません。

思いが起ころうとする前に
それをすでに捨ててましたから。

だからその自分の思いに
影響されることはありませんでした。

私の実践を遮るものは
ありませんでした。

実践を遮るものは

「自分の声」

ですから。


そしてひたすら実践し続けました。


そしてあることがきっかけで
その実践ができなくなりました。

信じられるものがなくなってしまったのです。


、、この信じられるものも幻想ですから、
これはこれでよかったのでしょうけど
その時点での私にとっては
私の存在をすべて否定されているような気がしてしまって
どん底に落ちてしまったのでした。 


実はこれが第2の道の始まりでした。


そこからまた新しい実践が始まりました。

私は決して実践をやめませんでした。


進み始めてしまったので
もう後戻りはできませんでした。


(*・ω・*)ポッ




[Edit]

高額スピリチュアル?


あの、
スピリチュアル的セッションみたいなのって


高くないですか、、、?


(高くないものもあると思いますが)


そんなものですか?


真理はとってもシンプルです。

そんなにお金がかかるのかなぁ、、、。



それを伝えるのに
多少のお金がかかるとしても
実際、高すぎるものがありますよね。


そういうのにお金を使うのなら
無料で確実に効果のある
実践をされてはいかがでしょうか?



順番待ちもない。

今すぐできる。

どこかに行く必要もない。

それでいて無料です。




あと、余談ですが
迷っている人が
迷っている人を導くことはできません。


教えを説く人が
まだ迷いの次元にいるのであれば
その教えで迷いの次元を脱出することはできません。

なぜなら迷えるその人は
更なる次元を知らないからです。

知らないことを
伝えることはできません。


(*・ω・*)ポッ






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修行僧


かつてのラピ。は

修行僧

と言われていたくらい
やってました(笑)


どの瞬間も、
実践してました。



その頃の私は
何か解決しなければならない問題を
抱えているような感じでした。


でもだからこそ
実践を頑張れたのだと思います。


あと、漠然と思ってたこと。
前にもブログに書いたと思うけど

「私はこの生で終わり。
もう生まれ変わらない」

そう思ってました。


この世界はいいことや嫌なことがあって
それの繰り返し。

もうそんな繰り返しは嫌だ。

それを終りにする。

生まれ変わることはもうない。

もう生まれ変わらないので
「来世でがんばる」という選択肢はない。

今やるしかない。

もうやり直しもない。

だから今世しかない。


こんな思いでの実践でした。




そしていろいろあって
ついに彼岸へ。

その問題から解放されました。

問題が消えました。




悟りの道は
決して楽なものではありません。


無理して
この悟りの道を選択する必要は
ないと思います。

どうぞ
無理なさらず
今を生きてください。




でも、それでも、、。

もし本気で至りたいのであれば、、。


その道は厳しいですよ。

なぜなら私は
厳しい道を経て至ったから。

そして今ならその厳しさが
道には必要だと知っています。

(ちなみに実践中は
「自分を捨てて」でやっていたので
厳しさを思う暇はありませんでした。
そんな感情も無視でしたから。)



それは「激流」とも言われているものです。

激流を渡り終えた先が彼岸なのですが
渡り終えたら まさしく激流が消え
彼岸にわかったことがわかります。

それはひたすら実践をしていたときに
ふと、訪れます。

それは
誰も予想ができないものれす。




悟りの道はやっぱり修行だと言えます。

修行=実践 

です。


その実践は日常でできるものです。
特別なことではありません。

日常だからこそ実践できる

とも言えます。


山にこもる必要は
全くありません。

出家の必要もありません。



(*・ω・*)ポッ






プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



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