[Edit]

激流について

TK師のコメント
記事にさせていただきます!



*・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.:*・☆・

激流法にトライできる精神的な資格を持つ人は、
そうそう見かける種類の人たちでもないわけですが、
激流法も折角発掘したのに少しくらいポイントを明かしておかないと、
秘教の域に埋もれさせてしまう事になります。

「激流」とは苦行と同等の言葉と捉えてもらって構いません。

釈迦が苦行を否定したと間抜けが流行らせ、
それをまことしやかに信じる愚かな群れ。

釈迦は苦行を否定していませんし、
釈迦自身、苦行によって悟りに至るためのメンタルを整えた、しかし、
ラピ。さん同様にあと一歩、真のベクトルが無かった
だけです。


http://www.performanceship.com/blog/2008/07/post_3e48.html

(→リンク


苦行イコール激流の要素がある以上、
そこに何も効果が無い訳がないではありませんか、
常識で考えればバカでもちょんでもわかる事です。

どこかの間抜けが、
釈迦が苦行を否定したと嘘八百をばら撒いところから、
葬儀屋仏教とか全ての真髄の歪曲、緩流が流行ったと思います。

ヴィパッサナとはそもそも、激流(精神的な苦行レベル)でなければ
その実践の意図している効果は得られません。

この最大限に重要なポイントが全く外されています。

次の二つの経典を比較して何かに気が付きませんか。

増支部経典
>「もし、バラモンがタパスを行ない、それによって
>その人の善い性質が減り、悪い性質が増すようであれば、
>私はそのようなタパスをしりぞける。
>しかし、それによって善い性質が増し、悪い性質が減るようであれば、
>私はそのようなタパスを勧める」


相応部経典
>「不死に達するための苦行なるものは、
>すべてのためにならぬものであると知って、
>乾いた陸地にのり上げた船や艫のように、
>全く役に立たぬものである。
>さとりに至る道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、
>わたしは最高の清浄に達した。
>破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされたのだ」


ポイント
苦行自身を否定しないが、悪い性質が増す苦行は否定する。

不死に達するための苦行はためにならない。


バカな間抜けな人でもここまで手鳥足取り教えれば
わからないはずがありませんね。

釈迦自身が苦行によってメンタルを整えましたが、
「不死に達するため」、これは五上分結の無色貪の一種です。

つまり、無色貪に縛られた苦行にしろ行いは、
ためにならない事なんですよ、
これバカな人でも常識的にわかりますよね。

釈迦にとって、最大の命までかけた貪りの行為をした、
それが「釈迦にとっては苦行と言う行為だった」
という事なのです。

バカな人たち、だから阿羅漢にもならない盲人である
無資格者が、
やたらに経典振り回す行為は「豚に真珠」でしかなく、
おかげで末法の世を加速させる仏罰的な愚かな行為を犯すだけなのです。


五上分結
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%B8%8A%E5%88%86%E7%B5%90


つまり、「激流段階」の実践では肉体的な苦行にしろ、
精神的な苦行にしろ、実践のポイントは目的を持ってはならない。

常識から考えたらかなり難解な点です。

命がけの苦行にしろ行為を、
目的を持たずにできますか、と言う点です。

目的を持たずに、命をかけることが出来ますか、
という事です。

釈迦が悟れなかったあと一歩は、この点でした。

よって、釈迦の苦行仲間の五比丘も、
この真のベクトルの一歩を手に入れて次々と悟ることが出来ましたが、
この人たちにはあらかじめ苦行(激流)で整えた
メンタルの素地があったものと考えられます。

ヨーガでもウパニシャツドでも
苦行(タパス)は解脱の方法論として有効であるのに、
ヴェーダの達人とまで言われた釈迦が
苦行を否定するなどとうそぶく事は、
それは何もわからない者のバカな解釈というものです。

少し話が多くの人々には関係のない「激流」段階の修行法に触れましたが、
多くの人たちにとっては「目的」は必須内容ですから、
くれぐれも「目的」も持たないような行為はしないで下さい。

次第説法は釈迦の時代から重要なものとされてましたが、
これを無視する経典を振り回す仏教とか名乗る人たちは本当にバカですね。

次第説法では次第に従って、
真逆の実践法になるものが多いのです。

それを悟ってもいない盲人である者が、
自分の判断で好き勝手に、
拾ったり拾わなかったり分別してやってたら、
何でも詰め込むゴミ箱以下の人間が出来上がるだけです。

経典にはその人の次第によって、
拾ってはならない真逆な内容が沢山ありますが、
それも分からずに私の前に仏教を振りかざす
釈迦の真の教えを汚すゴミ箱のような人間が、
私の前にどれほどいた事か知れません。


例えば理不尽な事をされた時に、
その理不尽に対して 対策を練って、攻略法を模索する、
これがまっとうな人のやる事ですが、
そういう人間としてはあたりまえの事もしないで、
否定せずに受け入れるなどとやったら、
バカ丸出しですよ。

この2者、実はその人の次第によっては両方正しい実践法ですが、
次第によって、なのです。


その人の次第によって、その人に適切な実践法と
「メンタルの毒」になる実践法が真逆になるのです。


*・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.:*・☆・


TK師ありがとございます。

確かに激流については
誰にでも伝えられるものではないため
それについての資料や残っている教えは
少ないかもしれません。

私自身も激流を渡り終えた者ですので
それを記事にすることで
誰かの役に立つことができるかもしれません。


しかし、この激流
普通の人には害になる可能性があります。

私の場合、
激流というものを知らず
いつの間にか激流に飛び込んでいたのですが
(第一回目の激流)
この激流に飛び込むきっかけは
一言では表せません。

いろんな要因が絡んでいるからです。

しかし、ヒントになる一つの出来事について
書いてみようと思います。


私はなんでもチャレンジャーでした。
そしてエゴが強く
ある日なんでも自分の意志でしたいと思いました。

当たり前にできていたこと
何も考えずに当たり前に出来ていたこと

これをあえて
意図的にする実験をしました。


そしてこの実験をすることにより
私は
どんなことも無意識にすることが
できなくなりました。

当たり前に出来ていたことが
当たり前にできなくなってしまった。

何も考えなくてもできていたことが
自分が意図しないとできなくなってしまった。

よって私は「無意識」と
無縁になりました。

常に意識を働かせている状態です。
休むことは許されません。


私のすべてを
自分の意志が支配する形になった。
=安らぎは全くありませんでした。

もちろん、挑戦でしたので
安らぎは求めていなかった。

しかし、よって
起きている時間は
常に意識を働かせることとなる。

これにより、
私は意志=自我のみで生きることを選択したつもりでした。


しかし、
しかし、
甘かった。


たがが意志でした。

たががエゴでした。


意志もエゴも無能でした。

私が生きていることに関して
どれだけの意志が働いていたのだろう。

大したことなかった。

私の「意志」「エゴ」「自我」は
完璧に無能だった。

都合のいい時だけ
「自分の意志がやった」
と言えるだけのこと。

とことんこの実験をやってみればわかります。

私たちは実は
「何もしていない」
ということです。



しかし、この実験を真剣に始めてしまうと
もう、後戻りはできない。

残念ながら
最大に肥大したエゴは
意図し続けると選択した私にとって
逃げ道を一切許さなかった。

私はもう、普通に生きることは
許されなかった。

これは私のエゴへの挑戦であり
エゴから私への試練でした。



なんでもとことんしてみてわかることがあります。

私のこの実験は
誰にも勧められない。

激流に向かう可能性のある実験です。

(しかし、徹底的にしなければ
激流は無理ですが。
中途半端だと変に「わかったふり」で終わる可能性があり
害になります。)

しかし、もし、
今、別の方法で自我が最大に肥大した人がいたら
もう、行く道は一つです。

その人にはもう
激流しかない。


私がそうであったように。


この実験により
最大に肥大したエゴは
更なる実践により中途半端な消滅を経て
スピリチュアルへと向かいました。

そして最後
TK師による本物の教えから得たヒントを活かし
私の最終形の激流へ飛び込むこととなります。


(私の文は例えが多く使われています。
だからこの文を自分なりに解釈して
勘違いしたままこの実践をしてはダメですよ。)



ちなみに、スピリチュアルをしている方は
実はエゴが強いです。

私がそうでした。

「この教えが正しい」

と根拠なく信じたもの
疑ってみてください。

本当にそうでしょうか。

本や人からの受け売りではありませんか?


私はそうだった。

本当にそうだった。

「知っている」

これもスピリチュアルの本から得た情報でした。

そして「知っている」も試してみたけど
実は何も変わらず
単なる自己満足のみでした。

今だから言えますが
「知っている」
これは至った人が使うのであれば
全く違ったものとなりますが
至ってない人にとっては
スピ系でそう言ってしまうと
ドツボにはまります。

もちろん、日常の経験から「知っている」
と言うこと
仕事から得た経験により「知っている」
と言うことなどは
とても素晴らしいと思います。

なぜならそれはその人の経験であり、
そこから得た「知っている」だからです。

(ちなみにこの「知っている」も
実はコロコロ変わりますが。
例えて言えば医療の現場などもそうです。
常識は変わり続けています。)


しかし、スピ系に関しての「知っている」は
ほぼ思い込みです。

「悟りとは知ること」

「悟りとは差取り」

なんもわかってないなぁと思います。
(この言葉で検索したら
いろんな思い込みの記事だらけにヒットします)

そう言う人は
そうだと思い込んでいるだけです。

申し訳ありませんが
それは嘘です。

「悟りとは知ること」
「悟りとは差取り」

こう思っている人が多いので
それが正しいと思われていますが、、、。


これについて
また改めて記事を書きたいと思います。
(いつになるかはわかりませんが)

自分の経験から書きます。


@(*・ω・*)ポッ


スポンサーサイト

[Edit]

本気であれば

もし、この人生
本気で探究したいのであれば
本気で真理を得たいのであれば
今あれこれ思いをめぐらすより
今ある自分の問題を解決していった方がいい。

それが遠いようでもっとも近い道です。

自分の問題を置いといて
理想論とか
人とはこうであるとか
人生はこんなもんとかわかったふりをして
行動せずに
いろいろ思いを巡らせることは
近いようでもっとも遠い道です。


真剣に幸せを求めるのなら
今の自分にとっての問題を
まずクリアしなければならない。


また、幸せなんてどうでもいい
なんていう人は
嘘をついている。


本当の自分に向き合っていない。


生きていたら
いろんな大変なこともあると思うけど
いろんな楽しいこともあると思います。


この「楽しいこと」が
勇気を くれることだってある。


だから逃げないでほしい。


しかし、逃げるべき環境にある場合もある。

それは「逃げる」という
善なる道=幸せを目指すための選択であるのなら
決して逃げではない。

人は守るものがあれば
強くなれる。


どうぞ、勇気をもって
幸せを選択してください。



[Edit]

激流を選択すること とは

TK師のこのコメントに対して
私なりに書かせていただきます。



>命を落すか実行しないかの選択肢では、
>命を落しても実行する方を選択できるレベルの
>善玉エゴの力が必要です。

まさしくそのとおりです。

私の場合、人として一生懸命生き
もうできる限りのことはやったので
人として生きることに全く未練はありませんでした。

これくらい一生懸命生きました。

なので次の段階として
人としての限界に挑戦する、
という道を選択しました。


『もう二度と
人として生きられないかもしれない(=死)けど
それでもいいか?
後戻りはできないけどいいか?』
という問いにも
「かまわない」
と即答できる状態でした。

(そもそも自分を捨てていたので
そんな問いも出てこず
後ろを振り返ることも全くなかったのですど)

それほど人として生きることを全うし、
それにまったく未練がなかったのです。

こういう言葉に対して
「そこまでしなくてもいいやろ」とか
「がんばるのめんどくさい。楽したい。」
と言う人は
「めんどくさい」「楽したい」という選択肢、生き方がまだあります。

まだ、人生を経験する選択肢が残っている
ということです。

だからそれをせずにはいられないのです。
だからそう生きるしかないみたいですね。

激流渡る人は
「楽したい」という選択肢が
どういうものであるのかを知っているので
二度とその選択肢は選びません。

人は生きることを通して学んでいきます。

そうやって人としての選択肢を
すべてやりつくしてしまった人は
「究極に向かうしかない選択肢」しかない状態であり
最後、究極の激流を選択するのです。


よって「楽したい」という選択肢がある人は
「楽したい」と思いながら生きることがどういうことか
しっかり味わって
もしかしたらいつか
「これはどういうことだろうか?」
と思うかもしれない時まで
そうしていればいいと思います。

そしてなにも疑問に思わなければ
永遠にずっと「楽したい」が続くでしょうね。

もちろん自由ですね。


人は何かのきっかけがないと
考えが変わることは少ないと思います。

「楽したい」という生き方がどういうことか
人に言われてもピンとこない人は
自分の人生使って
それを経験していくしかありません。

貴重な人生をつかって
「めんどくさい、楽したい」と思う人生を
生きることはどういうことか、
学び、気づいてほしいと思います。

その「楽したい」という人生を
永遠につづけたら
どんな気持ちになるのでしょうか。

その生き方を変えなければ
その人生は変えない限り永遠にずっと続きますよ。

それでもいいならそれでもいいと思います。

自分の人生
自分に責任もって
自分なりに生きていくしかありませんよね。




[Edit]

悟りと苦悩

そもそも「悟りたい」と思うのは
苦しみや悲しみ、その他
自分にとって好ましくない感情があるからこそです。

本当に幸せな人が「悟りたい」って
思うでしょうか。

満たされた人が
「悟りたい」って思うでしょうか。

「悟りたい」は願望ですので
明らかに満たされた状態ではないですね。


よって「悟りたい」には
苦悩や悲しみは必須ということになります。

苦悩や悲しみがあるからこそ「悟りたい」であって
苦悩や悲しみがなければ「悟りたい」もない。


「悟りたい」
(=悟った境地は幸せであるだろう、と
悟りを希望する状態)
を幸せ(自分の希望する幸せ)だと定義したとすれば
さらにわかりますね。

幸せもあればそうでない時もあるからこそ
幸せがあるのです。

この世界は相対で成り立っていて
一方だけでは成り立ちません。

よって悟りたいという思いがあれば
苦しみもある、
ということです。

(これは至る前のことです)


そして本当に悟れば
苦しみも幸せも
相対性がなければ成り立たないものは
消滅します。

そして更なる境地となるのですが
言葉は相対的ですので
そもそもその更なる境地は
言葉では表せません。



楽して悟りたい、は
よってその「悟りたい」がどこから来ているかが
わかっていないから言えることです。

そもそも苦悩の上に成り立っている
「悟りたい」ですから
楽しようとすることは
悟りたいの源の苦悩に
蓋をしてしまっていますから
悟りにふたを しているのと同じです。


楽したい=苦悩から逃げたい=悟りを遠ざける


苦悩から逃げず
そこに飛び込むことによって
激流となりますが
激流の向こうに悟りがある、というのは
そのためです。


苦悩から逃げる=悟りから逃げる


なんとなくおわかりでしょうか。

[Edit]

悟りを目指しちゃだめだよ~

師匠にメールを1月14日に初めてしました。

そしてメールのやり取りを数か月しました。

その間、私は反発もしました。
否定ばかりされるからです。

う~ん、しかしなぜか疑うことはなかったです。
ただ、どうしてそう言われるかがその時はわかりませんでした。

師匠の言っている意味もさっぱり分からないし。


TK師を師と呼ぶと決めたのが5月11日です。

そして師からある言葉をもらい
それがきっかけとなって私のかつての激流を思い出します。

それが5月12日の夜。
そしてそのまま激流に飛び込み
(13日の昼休みに激流に飛び込んだことを師匠に報告)
13日の遅くない時間の夜、至りました。



師から頂いた智慧のひとつは
「スピ系思考では至れない」
ということです。

しかし、その時至ることは目指しておらず
人生を幸せに生きられればそれでいいと思ってました。

しかしあまりに師の言われていることがわからないので
わかりたいと思いました。

師と同じ状況になりたいと思いました。

私の知らない、師のいる世界へ行きたいと思いました。

それが最後の道へのきっかけです。

ちなみに至ってない時のなかなかいい言葉は
「わからない」
ですよ~(笑)


そしてスピ系の知識をすべて捨てて
私の原点に戻ることが大切だということでした。

人生を豊かに生きるために
活かされるスピ系もあると思います。

しかし、
「悟り」を目標にしてしまえば
悟りは絶対遠のいてしまいます。

絶対!です。

そして基本的に大切なのは
「自分を信じること」
「あきらめないこと」だと思います。

人として生きることの原点にもどって
自分らしい後悔ない生き方をしていただきたいと思います。

そうすれば悟りなんて
どうでもよくなっているかもしれません。


最近思い出すのですが
遠い昔
幸せも不幸せもなく
ただただ幸せであった、
問題もなく、悩むこともなく、なにもなく
ただただ幸せであった時がありました。

それが永遠に続けば
なんの問題もない。

しかし、私は自我の目覚めにより
苦悩することとなります。

目覚めたときのことをはっきり覚えています。

「考えろ」

この衝動がわいてきたのです。

「考えろ、考えろ」

自分はどうすればいいかを考えました。
苦悩と共に考えました。

そこから私の理想を目標とする道がはじまり、
苦悩に挑戦する道が始まりました。

いや、実践を始めると
自分を捨てていたから
苦悩すらも捨てていたので
ある意味幸せだったでしょうか。

実はスピ系実践の時の方が
いろんな思いが浮かんでいました。

捨てる実践より
得る実践をしていたからです。

これが人なんだなぁ。

しみじみ思いました。

いろんな思いが浮かんで
人はその思いのまま生きているんだなぁって。

それを経験しました。

楽しいこともあり、そうでないこともあった。

しかし、楽しいっていうのも
私の場合、
実は楽しいふりをしているだけだったのかもですが、、、。

楽しいことすらもある意味実践だった。

楽しいことってどういうことか
思いっきり楽しんでみようと
楽しむことも実践でした。


苦悩のない境地を知っていたからこそ
苦悩のある境地に違和感ありありで
それは本来の状態ではない、と思っていました。

だから苦悩に挑んだ。

苦悩するのはおかしい!と。

その頑張りのおかげで自我が消滅しました。

自分が頑張って至った境地

もう、もとに戻り苦悩することはない。


ちなみに私は悟りを目指したのではない。

自分の理想を実現するために日々を過ごし、
どんなことがあってもあきらめない
というだけで
ここまでやってきました。

私の理想がとてもとても~高く
それを実現するために精進し
単にそれが叶っただけ。


悟りを目指しちゃだめよ!

@(*・ω・*)ポッ





プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



 admin






カレンダー

08 | 2015/09 | 10
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 - - -

ランキング参加してます♪

いつも応援してくださって
 (*´∀人)ァリガト

ご訪問ありがとう!

現在の閲覧者数:

カウンター

最新の記事

カテゴリー