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実践理論

私がやってきた代表的な実践は

「自分を捨てて心から何でも喜んでしよう」

です。


このブログで私の実践について
いろいろ書いていますが
実践を薦めているわけではありません。

しかし、この実践によって
私はかなりの恩恵を受け
おかげさまで今の私があります。

だからもしかしたら
私以外にも
恩恵を受けられる人がいるかもしれないと思い
書いてます。

なぜ実践なんてしなくちゃいけないんだ
と思う人は
もちろん、する必要はないのです。



私がやってきたこの実践は
理論的に解説することができます。

ちなみに実践時は
実践を分析すること自体が障害となりますので
分析したり、説明しようとすることは
禁忌です。

それは実践者の姿勢と
かけ離れているからです。

正しい実践者の姿勢は
自分の信じた善なる道を
ただただ進むことです。



私の実践時の特徴をいくつか挙げたいと思います。
(今はこの特徴は当てはまりません)


・本当に「善い人」になりたいと思ってました。
子供の時だったので
この思いに難しい理論は必要なかった。
自分なりの善い人になりたかった、完璧に。
そして単純に。


・自分にとっての「善い人」の定義があった
そうなれるよう日々過ごしました


・自分の判断する思いはいらないと思えた

よって実践に「自分を捨てて」を取り入れています。
(自我がある場合、
どんなに頑張っても「自分を捨てる」ことはできないのですが)
本気でやっていました。
また「喜んで何でもしよう」という実践が中心で
「自分を捨てる」というのが
実践の前提条件であったのもよかった。
(偶然か必然かそういう実践をしていました(笑)

どんなにがんばっても自我がある時は
自分を無くしてしまうことはできないのですが
(ここは悟り道のポイントです)
それを実践に中心としなかったのが
善かったみたいです。

よって何を実践するかを決める時
コツがあることがわかります。

まず、自分の理想の状態が何であるかを決め
それができている前提でする実践をする
という感じでしょうか。


私の理想の状態は
「自分を捨てて」=自我のない状態だったのかもしれません。
(その頃は自覚なし(笑)

詳しく書けば
いろいろ分析したり裁いたりする自分は
善くないと思ってました。
そんな善くない自分はいらなかった。

ただただ善い人になりたかったのです。

これは善くてあれは悪い
と判断する私も
とても偉そうだと思いました。

そんな判断する自分はいらないと思いました。

それをするうえで
喜んで何でもする
という実践をする。

ただただ善であるよう。

これを続けると
いつのまにか自分を捨てるに近いコツを
得てしまっていたのでした。



ここで「自分を捨てる必要はあるのか?」
という疑問がわくかもしれません。

そう思う人は
捨てる必要はないです。

私は「捨てたかった」からそうしただけで
そう思わない人は
捨てる必要がない。


実践を決める時は
自分の善なる基準で決めるべきでしょう。

またそもそもなぜ実践しなくてはならないのか
という疑問に対しても
そう思う人は
する必要がない。

私はそうしたかったからしたのです。

そしてそれをやり切りました。

(したい、だけで中途半端にして、
あれもこれも「したい」とやってしまうのとは
違います。)


そしてなぜ私が
自分の実践について書いているのか、は
それが結果的に悟りへの一歩だったからです。

だから、かつての私の実践内容が
悟りを目指す
(目指しても無理なのですが例えて言えば、です。)
誰かのお役にたてるかもしれない、と。

しかし、私はかなり自我が強く
人から言われた実践は
決してしなかったと思います。

自分で決めた実践だからこそ
やり通せた。

だから本気で進む人は
そもそも私のこのブログの内容は
必要ないかもなんですが。

まぁ、読みもしないでしょうか。(笑)

(かつての私にも
もちろん必要なかったです。
自分で決めたから。
ネットもない時代だったので。
そして子供だったので
本を買う自由なお金もそんなになかったから
情報もほとんどなかった、それがよかったのかな)


だから人生精一杯生きて
自分が本当に求める善なる目標に向かって
進むのが
結果的に悟りの道になる
という感じでしょうか。


私は心の底から善い人になりたかった。

悪い私はいらなかった。

それ以外に何も要らなかった。

この世の中のものに
私はありがたいことにほぼ興味がなかったので
実践に集中できました。

そんな人生何が楽しいの?
と聞かれたら
うまく答えようがないかも(笑)

そもそも楽しみなんて追及してないし。

そしてお聞きします。

では楽しい人生ってなんですか?と。

そうだから、どうなんですか?と。

例えて言えば私にとっての幸せな人生とは
真実を知ることだったのかな。


私は何かを楽しんだり
何かを得て満足したりする人生には
全く興味がなかった。

そんなもの(楽しむもの、得たもの)が
なくなってしまったら
どうなるのでしょうか。

私は何にも頼らない、
確実なものが欲しかった。
(これは「何も頼らない」、と言いながら結果的に
確実なものに頼ることを必要としていた
変な目標なのですが。
この矛盾もまた悟りの道のポイントです。
これが自我がある人ならではの目標です。
それでいいのです。)

それは自分の外に頼っては
得られないと思った。

永遠に変わらない確実なものが欲しかった。

それさえあれば後は何も要らないと思った。
(これも実は矛盾しているのですが
それでいいのです、道の途中は)

この頃
これまたありがたいことに
「永遠に変わらないものとは○○だ」
という
何かと定義しようとする私はいなかった。
(この定義づけは安心するきっかけであり
=停滞を意味します、実践者にとっては)

ここで○○だ、と定義してしまっては
その「○○だ」も
本物も得ることはできない。

何も得られない。

「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
を行動のきっかけとし
どうすればそれが得られるかを考え
どうすればいいかを決めた後は
確実なものを想像することなく
ただただ実践することが
勝手に得ることなく得てしまう秘訣です。


「あ~そういうことか」
という人こそ
何もわかっていない。

「わかった」という言葉を
私のここで書いている文章に関して思う人は
実は何もわかっていない。

(日常での「わかった」は
大切なわかった、が多いですが)


自分が体験して
それをやり遂げてはじめて
「そういうことだったのか」
といえます。

よって道の途中、
「わかった」というのは
明らかに「わかったふり」ですので
わかってはいけません。

「ふり」という偽物をつかんで
何が楽しいのだろうか。

お勧めの姿勢は
「なるほど、ではやってみよう」
かな。

やる前に結論付けては
その結論以上のものを得られません、確実に。


悟りは想像以上の状態ですから
今の状態での
悟りに関する想像は
すべて外れています。

悟りに関してあれこれ考えることは
悟ってしまえば
間違いだったことがわかりますので
よって悟りについて
あれこれ想像することは意味がなく
さらに悟りを求める人にとっては禁忌です。


かつてのコメントのやり取りで
私は否定する言葉を
多く使ったと思います。

違うものは違うとお伝えするしかないし、
偽のものを肯定できません。

そして大体
自分を否定されたと思う人は怒るのかな。
そして去っていく。

そもそも私が否定しているものがなになのか
わかっていない。

否定しているのは
「コメントした人」ではないのだ。


あるコメントされる方は
明らかに誰かの書いた本や
インターネットに書かれている内容を
自分なりに「解釈」し
あたかもそれが事実であるよう書いていました。

果たしてそう言っているものが
「自分の間違いない真実」
なのでしょうか。

人から借りたものではなく
間違いなく
自分が言っているその言葉どおりのものが
体現できているのでしょうか。

偽物の言葉を
あたかもそうであるように語る人は
悟りから離れています。

「こうである」
と人の言葉を借りて
わかったようなことを言う人は
悟りから離れています。

そういう人は永遠に悟れません。

なぜなら悟りとは
「そういうもの」ではないからです。



「わかった!」
は悟りからかけ離れています。

しかし
「わからない」
もかけ離れている。


わかった、わからない
そう判断するのではなく
とりあえず自分の善なる理想に向かって
歩き続ける。

そうすればわかることなくわかる。


わかってはいけないが
わからないもダメ。

そもそもそこから、
その判断から離れなければならない。


私の実践の特徴のひとつである
「自分を捨てて」は
その理論では片づけられない
悟りの本質に
ちょっぴり近いものでした。

(ほんのちょっぴりですけど(笑)
ゴマほどもないくらい(笑)



ちなみに私は
楽しい人生は全く、全く求めていなかったのですが
結果的に今
とても楽しいです。

これは想像以上のものでした。

なにに感謝していいかわかりませんが
例えて言えば
すべてに感謝です。


どうもありがとう。



ちなみに
「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
これは達成できたのか?という問いには。

いろんなお返事の仕方ができます。


まず、その「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
というものそのものが消滅した。

願望そのものの消滅により
達成した、達成していないを超えた達成をいたしました。

また本当は
「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
この言葉自体に矛盾を含んでいるのですが
自我がある時は気づけない。


そして誤解されやすい言葉なんですがですが
(事実、誤解されていることがほとんど)
結果
「永遠なんてない」ということ。

変わらないも変わるも
そういった変化するものが
消滅してしまった、ということ。

そして確実なものなんてそもそもなかった
ということ。

それによって
ある意味、確実なそれがそうなったということ。


「永遠に変わらない確実なものが欲しい」と言う人は
「永遠に変わらない確実なもの」に頼った人です。

「これさえあればいい。あとは何も要らない」という人は
「これ」がなければ生きていけない人です。

「これ」を生きる糧としている状態です。

そしてついに「これ」もなくなってしまったら
どうなるのでしょうか。

この消滅過程が激流であり、
無くなる前に
激流と言われる状態になります。

そしてついには消滅して
何にも頼る必要のない状態となる。
(例えて言えば、なんですが)

しかし、体はまだありますので
こうやってブログが書けるわけです。


体がなければ
もう存在していないと思います。(笑)

体って本当に
ありがたいものなのです、ある意味。

こうやって皆様と
対話できるのも体があるおかげです。



言葉に表せないことなんですが
とりあえず、言葉にしときます。

だから私の言葉を
「わかった」なんて言っちゃだめですよ。(笑)

しかし、活かしていただけたら
と思いますが、、、。


私はとても幸せです。

ありがとう。










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都合のいい解釈

よくこのブログで
「善なる道を」
と言っていますが
この「善」の基準は
人によって違うかもしれません。


しかし、、、。
確実に「善」でないものを
「善」であるとし
それを実行(実践)している人が
たまにいることもわかりました。


「相手のため」「みんなのため」
と自分に言い聞かせ
一般的に善でないことを実行すること

これには何が隠されているのでしょうか。


さて、善の基準ですが
例えば自分が「これは善である」として実行したものが
本当に善であるのなら
その実行したものを
自分がそうされて「善」だと思えるか?
ですかね。

またその善なる行動を
自分が本当に大切に思っている人に
できるか?


また「言葉」なんですが
私が至る前に
そして今も
どうやっても口に出せない言葉があります。

その言葉は
例えて言えば善ではないからです。

自我があった時はもちろん
善悪の判断があるので
悪の言葉を使うことはできませんでしたし
それを発する自分を認めることはできませんでした。

至った後も
かつての私のような
善悪の判断がある人にとって
善くない言葉はつかえない


今は意味がない言葉を
使うことができますが
それでもなかなか荒い言葉はつかえません。

使うとしたら
そういう言葉を発する人に対して
そのままそっくりお返しするくらいですかね。



自分の都合により
「これは善だ」として行動することは
良くありません。
(当たり前ですね)

善でないことを善であるとした人、
善だと思いこんでした人は
それを永遠に続けるでしょう。

なぜならそれが「いい」と
思い込んでいるからです。
(自分にそれは善だと言い聞かせている)

それをやめる時はいつでしょうか?

「よくないんだ」とわかってからではないでしょうか。

よくないとわかると
自分は一体何をしていたんだろうと
思うかもしれない。

この時の罪悪感はすごいものでしょう。
それを背負わなければならない。

またはずっと善であるとして
続けるかもしれない。

どっちにしろ
「善」という「思い込み」とは関係なく
自分がしたことは
そのまま自分に返ってきますので。


そして善でないことを
善なるものとしてしていた人には
自分に起こる出来事の意味がわからない。

「自分はいいことをしてきたのに
この仕打ちは何?」と。

(そもそもこの「いいことをしてきたのに」
と思う時点で
まだカルマの中なので
この人はまだまだ善を為すべき人です。)

そしてそうされた現象に対して
理解できず
そういった出来事に
「それは悪い」というでしょう。

それでもその判断はおいといて
引き続き善でないことを善であるとして
し続けたなら
ちょっと、困った人ですね。

まぁ、これこそ
永遠に続く輪廻と例えられるでしょうか。

自分がしたことと
起こっている出来事の
関連性を認めなければならない。

そして反省し
やり直さなければならない。

それがわかり反省し、
もうそれはやめよう、と決心できた人が
本当の善なる道を歩くことができます。

そう決心した時点で
ぐるぐる回っていた輪の中から
一本の道ができます。

もう回る必要はないし
回りようがない。


都合よく善だと解釈して
行動する人は
同じことが自分に起こった時
「善だ」と言えるのなら
善なのでしょうかね。

ではそういう場合、
その自分に起こった出来事すべてに
善であるとし
善に見えなくても
感謝しなくてはなりませんね。


今自分が善なる行動をすると決心し行動し
しかし、
善に見えない出来事が起こった場合、
自分が善なる行動をしていたのなら
起こる出来事は善であるはずなので
感謝でしょう。

昔のカルマとして起こっている
どう見ても善でない出来事に対して
感謝し
さらに今の善なる道を歩くこと。

それが善の積み重ね。

カルマは解消され
そのうち本当に善しか起こりようがない状態になります。

善に見えない出来事に対して
どう対応するかは
次に続く答えとなります。

それに対する行動を
いろんな形で必ず受け取ります。

よって善を積み重ねたほうが
いいに決まっていますね。


しばらく大変な経験を
善なる道を歩いているにもかかわらず
する人もいるかもですが
あきらめないでください。

善は必ず報われます。

善も悪も
そのまま自分に返ってきます。


善の積み重ねにより
悪が存在できなくなり
そうすれば善を求めることなく
そうでしかなくなるでしょう。

根気のいることがあるかもしれませんが
善なる道は
途中に起こる善でないようなことからも
ある意味、守られています。

私がそうでした。

私も実践中、
いろんな出来事がありましたが
善でかわしました。

「いつか笑える時が来るから大丈夫」

そしてその出来事の記憶は
今は他人事であり、
今の私に影響を及ぼすものではない。

それはその出来事が起こった時
自分の外では出来事が起こっていたとしても
私の中には
感謝しか起こっていなかったからです。
(至る前)

余談ですが
ちなみに今は
その過去の出来事を
感謝でかわす必要さえないです。

そういうものが無いから。






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善なる基準と理想

自分なりの善なる基準と理想を
募集いたします!

@(*・ω・*)ポッ


※ただいま、募集を終了しております。
ご了承ください。



理想は自分のあり方でもいいし
理想の世界でもいいです。

どっちの理想も
実現するよう、日々を積み重ねてください。

これらの内容を
このコメント欄にお書きください。

このコメント欄に書かれた方のお名前は
こちらにピックアップさせていただきます。


ここで善なる基準や理想を書いてくださった方は
サポートさせていただきます。

自分の書いた基準と理想を守って
毎日を過ごしてください。
これは必須です。
自分が考えて決めたものですから
人から言われた目標より
守りやすいと思います。


基本
主人公は自分ですので
なるべく自分で解決してください。

しかし、
もし、困った時があったら
お手伝いさせていただきます。

私の言葉から
自分にとって使えるものを
どうぞ、ご自由にお使いください!


ここのコメント欄に書いてくださった方。

清き道を応援させていただきます。

(この記事は常に
一番上になるようにしています
最新記事はこの次の記事です!)


宣言された方が困った時に書き込める掲示板は
この掲示板をご利用ください!


☆大好き!ハッピー!な 掲示板

なつかしいね!
(知る人ぞ知る(笑)
@(*・ω・*)ポッ

スレッド立ち上げ、
ご自由にどうぞ。
(今のところ;変更あるかも)

同じ宣言された方同士の
交流の場としてもお使いください。
ご自由にどうぞ!

基本は自分が主人公であることを
お忘れなくね!

つぶやきでもオッケーです(笑)

また、もちろん理想を達成できた報告、
大歓迎です。

みんなでお祝いいたしましょう!


(いろいろ記事の内容は改善することがあります)


追記:
コメントのお返事は
コメントくださった方へのものであり
全ての方に使えるものではありません。

よろしくね!
@(*・ω・*)ポッ




*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:--☆--:*



書き込んでくださった方
(みなさん同じ志を持った仲間です!)


・monicaさん
・ゆうさん
・どてかぼちゃさん
・こじゃけさん
・カノンさん





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判断

みなさま、いかがおすごしですか?


心ある方にとって
私の表現は冷たく感じるかもしれませんが
どうぞ、そのまま
そのまま
お受け取りください。

もし、私の言葉を冷たいと感じるのなら
それも自我の声です。

「冷たい」という判断が起こっていますからね。

(それが悪い、という意味ではないです。
それが自我の声、ということです。
そして時と場合によっては
その判断は大切なものとなります。

人として生きるのであれば
この「冷たい」はある意味正解であり
私の言葉は必要ありません。

しかし、悟りを目指すものにとっては
この「冷たさ」は自我を知るチャンスであり
その冷たさ(=判断)を乗り越えるために
精進することとなります)


判断

どうしても起こってしまいます。
それが悪い、ということではないのです。

しかし、それは自我の声です。

この判断をもし
乗り越えたければ
例えて言えば判断を使います。

私がよく言っている
「善なる道を」
ですが
これは善悪の判断があるからこそ
選べる道です。

どうぞ、善を選び続けてください。

判断から解放されたければ
逃げるのではなく
今ある状態をフルに活用しましょう。

今できることを精一杯する。

そして私の道であれば
その存在する判断のもと
その判断する自分を捨てました。

そしてさらに指針として
「喜んで」です。

「喜んで」「行動」します。

善悪の判断
(自分の判断は良くない
裁くのはよくない)

自分の判断を捨てよう

さらに喜んでなんでもしよう


これは最後の「喜んで何でもしよう」がポイントで
これによって
自分の判断を捨てることなく
うまく捨てることができるからくりとなっています。

もし、捨てることが目標となっていたら
捨てることはできなかったでしょう。

そして「喜んでしよう」は目標ではなく
単なる行動であり
その行動による結果を求めていませんでしたから
(捨てているので求めようがない:相互作用)
結果的にうまくいったのだと思います。

またもし、嫌な思いが発生しようとして
でも喜んでを実践するのであれば
この嫌な思いは捨てなければ「喜んで」はできません。

喜んでをすることにより
自分に発生しかけた「嫌な思い」は
結果的に捨てざるを得ない。

「喜んで」をすれば
必然的に「嫌な思い」は
なくなる、ということです。
(この「なくなる」は
初めはうまくできないかもですが
そしてある時はわずかに嫌な思いが残るかもしれませんが
それでも「喜んで」をします。
とりあえずするのです)

うまく表現できませんが
この実践は
シンプルに見えて
いろんなからくりが隠れています。

捨てることなく捨ててしまう技。

これは最後の道で
大いに役立ちました。

この技はそれを長年していたからであり
理論で得たものではありません。

やった者にしか得られない技です。
(よってやれば得られる可能性があります。
みんな一緒です)


また、ラッキーなことに
(今だから自分のしたことを説明できますが)
それをしていた時は
当たり前になにも分析することなく
ただただやっていたし
(分析も判断なので
その頃、もちろんできるはずもないのですが。
それも捨てていましたからね)
もちろんそれが悟りにつながっているなんて
夢にも思っていませんでした。

だから時間はかかったけど
(さすがにこの時は100%徹底はできていなかったかな)
ずっとそれをしていたら
否が応でもそうなるしかない。


特別な実践とするのではなく
当たり前の自分の生き方として
これをしました。

私の場合、ですが。

よって私は出家はあんまり賛成しません。

自我がある人にとって
出家することは
なんだか特別なことにみえませんか?

当たり前の日常にこそ
チャンスがあります。

日常から逃げて山にこもったって
日常に戻れば元通り
なんて意味がない。

出家環境でも厳しいものもあって
もちろん、それは道となるとは思います。
しかし

特別になんていらない。

今の環境に
チャンスがあります。

自分の課題に精一杯取り組めば
道は自然と開けます。

また、課題がクリアできなければ
次の道は開かない。


大切なことは「善なる道」であること。

自分の都合に合わせて
なんでも「これは善だ」なんてダメですよ。
(よくある誤解)

自分がされて嫌なことはしない。

されてうれしいことをする。

一般的に善だとされるもので
例えば「いいことである」と身近な人に宣言できるもの
(実際に宣言する必要はないですよ)

このあたりが善なる道の判断基準となるかな。
(ほかにもあると思います)


ちなみにですが

この「喜んで」は
悟るためのものではありません。

私の場合、
自分の生きる理想の指針としてやっていただけです。

よってこの「喜んで」は
誰にでも使えるものではないです。

人それぞれ理想が違うからです。


道としてはまず
悟ることはあきらめましょう。

悟ることを目標にしてしまっては
悟ることができません。

永遠にできません。

永遠に。

まず、悟りから離れて(必須)
今の自分の理想とする生き方をしましょう。

そうすれば悟れなくても
後悔ない生き方ができますし
必ず次につながります。

悟りと理想は両立できず(詳しい説明はしませんが)
両方やっていれば
共倒れとなり
中途半端になり
得られるものも得ることができません。


基本は善なる道で
今持っている自分の理想を指針とし
やっていれば
順番にクリアできて
最後は一本道になってしまうと思います。

興味あるものを極めるのも
一つの道ですよ。
(これも善なる道で)

だから今、
いや永遠に悟りはあきらめましょう。
(求めては永遠に無理です!
最後の道でももちろん求めてはいけない。)

そして自分にとっての理想の道を一歩ずつ進むこと。


私にできたのだから
みんなにもできるはず。

私は特別ではない。
ある意味、みんなと一緒でした。
みんなと一緒で自我がしっかりとありました。

なにかうまくいかないようなときがあったら

「ラピ。でもできたんだ。
私にもできるはず!」

この思いをばねとして
更に飛躍してください!

私はいつでも応援しとりますですよ!

善なる道を進むことだけは
忘れないでね!


そしてこの
自分を捨てて喜んでの実践で得た
「捨てることなく捨てる」技が
次の第2そして4の道を歩く時に
役に立ちました。


「自分を捨てて心から喜んでしよう」
の心からも
実はポイントなんですが
これはいつかは書けたら書きます。


しかし
無駄なことはないんだなぁ

しみじみ


「善悪の判断は大切だ」ということが
お分かりだと思います。

私の初めの一歩は
その「判断」なんです。

そしてそれに対する思いの強さ
真剣さが
最後までやり通せるかどうかの
分かれ道です。

私はその実践を
(今だから実践だと言いますが
その時は違っていて)
自分の生き方としてしていました。

まぁ、変わっていますよね!(笑)




※いろんなからくりが
この記事には込められています。

受け取り方は人それぞれであり、
それがその方の道となります。

自分にとっての善き道を
ますます選択できますように。

ちなみにこの記事を読んで
自分の判断に
気がつきましたか?

@(*・ω・*)ポッ





[Edit]

自分を捨ててなんでも心から喜んでしよう

私がやってきた実践

「自分を捨ててなんでも心から喜んでしよう」

これは言葉通りのものであり
いろんな要素を含んでいます。

自分を捨てて
心から
なんでも
喜んで
しよう


これらすべての要素を含んだ
ことばそのままの実践です。


私は自分に起こるいろんな思いは
「よくないもの」
と思っていました。

私に思い浮かぶものは
あれこれ判断するものであり
「それは良くない」
と思っていました。

そして心から本当に善い人になりたいと思いました。

この頃の私にとっては
良くない思いはもちろん悪いもので
あれこれ判断する思いも悪いもので
そんなもの捨てようと決心し
ただただ自分の決めた志を
貫いていきました。


周りから見たら変わった人だったかもしれない。

しかしありがたいことに
どんな時も誰かがそばにいてくれました。

もちろん実践時
誰かを求めたことはなかったですが
ありがたいことに
誰かがそばにいてくれました。


私にはこの頃
私なりの善悪の判断がはっきりありました。

それらは捨てたいもので。
捨てたい、だけでなく
実際に捨て続けました。

いや、実は善悪の判断があるからこそ
この実践をすることができたのです。

捨てるものがあったからこそ
実践できた。

(ただし、この実践をやっている時は
単にこれが自分の生き方として
ただただやっていただけです。
実践と思ってやっていたことはなく、
特別なことでもなく
ただただ自分の生き方として、でした。
それが私の生き方でした。)

例えて言えば
自分の実践を邪魔するものは
実は
実践の力となります。


この邪魔するものが
一般的に言われる「エゴ」とも言えるものです。

エゴは悪いものでしょうか?

しかし

人として生きていく中で
必要なものであり
それがあるからこそがんばれるんです。


自分を遮るものに感謝ですね。

しかし、私の実践時は
感謝することなく
「喜んで!」でしたけど(笑)

もし、今
自分を邪魔するものがあって
嫌な思いをしてしまう時は
感謝でかわしましょう。

そしてその邪魔するものは
更なる自分の力になること。

これを知れば
いろんなことが乗り越えられると思います。


ちなみに自分を捨てての恩恵は
はかり知れません。

嫌な思いに支配されようがありませんでしたし
嫌な思いが起こりかけても
捨ててましたので
無いのと同じでした。


プロフィール

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



 admin






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