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無条件

私のかつての目標は
段階ごとに変わっています。

1番目は
自分の理想とする自分が
どういうものかを決めて
そうであるよう努めました。

2番目は
自分の限界に挑戦し
自分の決めたことについて
この世界のだれにも負けないくらい
挑みました。
(この結果、一部が消滅しました)

3番目は
全体的な幸せを求めて
そうであるよう努めました。


どの段階も中途半端にやめて
次々と新しい目標を設定していたわけではなく
それぞれきちんとやり遂げて
次の段階に進んでいます。

ちなみに「やり遂げた」
という評価は
自己満足での判断ではありません。

本気で実践していたら
「やり遂げた」というのがわかりますので
大丈夫です。
(ここではやり遂げたということがどういうものなのか
あえてヒントは書きません。
ヒントを書くとそうであるふりをしてしまう可能性があるからです。)



この3つの段階、実は共通点がありました。

「無条件」というものです。


1つ目、無条件に喜んでをしていました。
2つ目、私のやった実践は「無条件」でした。
3つ目、無条件の幸せを求めていました。

特に1つ目と3つ目は
無条件の喜び、幸せという点でとても似ています。

1つ目は
何もなくても
(例えばいいことがなくても)
無条件で喜んで対応していました。

3つ目は何もなくても幸せというものを
求めて実践していました。
これも何もいいことがなくても
幸せであることを選択し続けました。

この幸せや喜んでの感情は
体があってのことで
体を使うことによって表現していました。

何かがあってうれしい時、
自分はどういう状態になるのか。

それを知り、
うれしいことがなくても
その状態を体現する、といった感じです。


例えば今悲しい
でも喜んでを実践しようとする時のヒントとして。

どちらの感情も体に現れるので
感情よりもその感情の体の状態に注目し、
(感情に注目すると
ある勘違いが起こり
その感情がすべてとなってしまい
コントロールできないことがある)

例えの一つとして
悲しみの氣の状態を捨て
喜びの氣の状態を体現する、といった感じでしょうか。

実は喜びも悲しみも同じもので
それぞれの感情によって体に何が起こるかを
知ることによって
それを体現することができます。

どちらの感情も
体に影響を及ぼすと言った点で
一緒なのです。

うれしい時、
体はどういった状態でしょうか。

悲しみの時は?

もし悲しみがやってきたとき
その悲しみが体に何をもたらしているかを
味わい、知り
そうでないようするのも一つのコツです。

悲しみがどういうものかを知り
克服する。
そうすれば悲しみがやってきても
対応の仕方がわかってきます。

(余談ですが私の実践はそうではありませんでしたが。
私の場合、悲しみすらも
起こる前にぶったぎっていました。
これができるならこの方法がいいのですが
まずは悲しみが起こっても
対応できれば
願望実現に近づけると思います。
どんなことも一歩づつです。
よってここに書いている内容が
私のやってきて来た方法とは異なる場合が
多々あります。
私のやってきた方法をまともに書くと
とても厳しい内容になるかもしれませんから。
私の方法を優しくアレンジしたものが
このブログの内容となっていることが多いです。)

体(または氣)をコントロールできれば
感情もある意味、コントロールできる可能性があります。

(私の場合はコントロールする前に
感情を起こさせませんでした。
しかし普通、人は感情が起こります。
だからこそ、これとうまく付き合っていく方法が
まずは有益、役に立つと考えます。

感情のコントロールも対応も
実は私はある意味やっていません。
今の私からしたらやっていると言えるレベルですけども
その実践は源からのコントロールであり
その末端の感情をそもそも発生させないような方法でした)



さて、幸せというのものとは一体なんでしょうか。

一般的には楽しいことがあったり
求めていたものが手に入ったり
そういったものがあって幸せだと感じると思います。

しかし、わたしは実践として
そういったものが何もなくても幸せとか喜んでとか
やってました

まぁ、常識をぶっ飛ばしていたわけです。(笑)

しかし結果的に今それが叶いました。

常識をぶっ飛ばした幸せです。


私の今の幸せには
何も条件がありません。

よってとても楽です。
幸せになるために
求める必要がない。

もうすでにそうであるから。

幸せに条件がない。
言い方を変えれば
常に幸せそのもの。

何もなくても幸せで
何も求めることなく

求める目標もないので
そこに向かって意志を使って頑張る必要もなく
(実はがんばることなくがんばれます)
ただただ幸せであります。

別の言い方をすれば
目標が生きる糧に必要なく
ただあるだけで幸せ。

求めてがんばって得て幸せ
というものがなくても幸せ。

生きがいというものを設定する必要なく
しかし、例えて言えば
すべてが生きがい。

この幸せは
「何かがあって幸せ」とは異なるもので、
幸せとか幸せでないとか
そういうものがない幸せであり
絶対的な幸せです。

普通、何かが叶って幸せであったら
必ず叶ってない状態があって
そこから叶うことを求め
叶うことによって幸せを感じます。

しかし、この幸せを続けるのには
努力が必要です。

なぜなら次から次へと願望が起こるからです。

常に叶っていない状態が付随しており
だからこそ
叶ったら幸せを感じます。

これは相対的実現と言えます。

叶うということは素晴らしいことですが
叶わない状態があるからこそ
素晴らしいのです。

よって叶うと叶わないは
ベクトルは違いますが
実は同じ仲間のもので
この一般的な幸せというものとと
私の今の幸せとは違います。

だからわたしの状態は
想像できないと思います。

試しに想像してみてください。




その想像したものは必ず違っています。

想像した瞬間
私の幸せとは違っています。

なぜならこの幸せは
想像以上のものだから

別の言い方をすれば想像外のものだからです。

想像する時点で終わりです。
外れです。

だからこの想像以上の幸せについて
「わかる」と言う人よりは
「わからない」と言う人の方が
矛盾した表現となりますが
少しその状態をわかっています。
(ほんの少しですが)


ここで気を付けなければならないことは
絶対的幸せがどうであるかを想像し
そうであるふりをすることは
道から離れているということです。

私の実践はそうではありません。
(文章からはそう見えるでしょうか?)

なぜならその想像した幸せを実践すると
想像しているものが
幸せの条件となってしまうからです。

私は想像なく実践しました。
その想像すらも条件になってしまうこと
=それは無条件でないことを
知っていました。
(知っていた、というのも厳密には違うのですが)

絶対的幸せには
条件がいりません。

本当に絶対的幸せを実践とするのなら
想像することなく
思い浮かべることなく
幸せでいなければなりません。

このあたりはかつて
自分を捨てても実践していた私にとっては
難しくないものでした。

想像することなく
思いうかべることなく
ただただ実践する。

これは前述の体の状態を体現することが
やはりコツとなるでしょうか。

そして意志の消費を無駄にしないように。

実践以外に思い(意志)を消費しませんでした。
(思いが浮かびかけても常に切り捨てていた)

よって実践していない時は意外に無心でした。

実践以外のことに意志を消費してしまうと
それは思いの分散となり
得られる結果も分散したものとなります。

また周りの出来事も条件となるので
周りの出来事に関係なく
幸せであることが
絶対的、無条件の幸せの実践となります。

ここに書いている実践のコツは一部ですので
(書ききれません)
絶対的幸せの実践は
私の文を見ただけでは
完璧には実践できないと思います。

だから絶対的幸せの実践よりは
(厳密に実践すると難しい。
しかし厳密にする必要がある)
自分の決めた目標を全うする道が
一番いいと思います。

そしてそれを
ひとつひとつ
完璧にやり遂げます。

やり遂げることが大切です。

根性と粘り強さと
あきらめない気持ち。


また、自分なりの実践をするコツとして
大切なことのひとつは
集中することです。

貴重な意思、思いを無駄遣いせず
実践に活かしてください。

それを本当に厳密に守れば
結果は必ず得られると思います。


どうぞ善なる実践を
がんばってね。


よって実践を本気でしている人に対して
アドバイスする時は
私の言葉は厳しいものとなることがあります。

「まだまだ甘い」と
言うかもしれません。

私は実践に人生をかけました。

私より人生をかけたなら
私以上になれるはずです。

私のやってきた実践より
厳しい実践をしている方なら
必ず結果は得られているはずです。

そして実はそういう方はそもそも
このブログは見ていないと思います。

そんな暇はないからです。

実践に集中していますから。


しかし、ブログを読んでくださって
ありがとうございます。

ブログを読んだらこのブログの内容は捨てて
どうぞ清き道を!


@(*・ω・*)ポッ






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いろいろな生き方

人それぞれに生き方があります。

私は自分のかつての生き方を元に
記事を書いています。


例えば苦境に陥った時。

どうするか。


私の場合、自分の外に働きかける
生き方ではありませんでした。

もちろん出来事に対して
工夫して対処していくことも
大切かもです。
それを善だとする人はそうすべきです。

しかし、私の善は
そうではありませんでした。

(私の方法がいいか悪いかは
人の価値観の違いで変わると思います。
一番大切なのは
それが自分の善であるかどうかです。
私にとって善であったこの方法は
私の悟りにつながりました。
自分の善を守り、生き抜くことが大切です。)


私はもともと
周りの人は関係ない、
別の言い方をしたら
興味がなかったので
起こった出来事に対して
確かに悲しい思いをすることもあったけど
自分を捨ててという約束事のもと
その悲しい思いも捨てて
喜んでをしていました。

周りの人からされたことに対して
向かって行くこともできたのかな。
(それはおかしい、と伝えたり
どうにかして改善しようとしたり)

しかし、私にその選択肢は
あり得ませんでした。
(これがいいか悪いかは人によります)


「自分を捨てて心から喜んで何でもしよう」

この指針はいろんな意味が含まれていて
この自分が決めた指針は
私を本当に助けてくれました。

しかし
「自分を捨てて心から喜んで何でもしよう」
が自分の善の基準にあっていないのなら
この方法は使えません。

やはり自分の善なる基準を元にし
指針を決めるべきです。


だから私ができることは
その人の善が活かされる指針を
見つけるためのお手伝いをし
道の途中で困ったことがあったら
その人の指針を参考にし
お手伝いできる言葉をお伝えすることかなと思います。


私の言葉で
自分が否定された気がする人も
いると思いますが
否定しているのではなく
その方に必要な言葉をお伝えしています。

もし、否定された気がした場合、
なぜそういう思いが生まれているのか
ちょっと考えてみてください。

からくりがわかれば
「否定された」と思ってしまう出来事は
捉え方によっては
次の行動のプラスに
確実になるんです。

自分に起こった出来事を
善なる毎日に活かしていけば
善なるカルマの積み重ねとなりますよ。


私は単なる言葉をお伝えするだけ。

主人公は自分自身です。

よって人のせいにすることは
その人に自分の人生を
預けていることになりますので
どうぞ、自分が主人公であることを
お忘れなく!


@(*・ω・*)ポッ



ちなみに私の指針を決める前に
私自身に問い続けた言葉は

「私はどうしたらいい?
どう生きればいい??」

というものでした。

しっかり自分に問い続けました。
※(自分に起こる問いは大切です)

そしてふとその指針が思い浮かびました。
※(時間はじっくりかけました。
自分の納得するまで)

指針を得た私は喜びを得ました。

その指針はまさに私の納得するものであり
「よし!そう生きよう!」
とうれしかったことを思い出します。

※(本当に考え抜いて指針が決まれば
問うことなく、疑うことなく
そう生き抜きます。
指針を決めるまでは大いに悩み
本当に「これだ!」という指針が決まったら
その指針を守ります。

決心したら問うてはいけません
問うということは自分の決めた指針に
疑いを持っていることになります。
また、問い(疑問)が生まれそうであれば
その指針は本物ではない可能性もあります。
その時は指針を練り直さなくてはなりません。
その為にも大いに考えましょう、指針を決めるために。)

ちなみにこの自分の指針は
その生き方そのものが私の善であったため
それをしたらどうなるといった
思いはありませんでした。

わかりやすく言えば
「よし!そう生きよう!
この生き方をしたら素晴らしい人生になる!」
といった、その生き方をすることによって
得られるもの(例えば素晴らしい人生など)の設定は
なかったということです。

素晴らしい人生のために
その指針を使ったのではなく
ただただ自分の善なる生き方として。

しかし別の言い方をすれば
自分の善なる生き方が得られるものではあったのですが
それは自分の指針をすることイコール善なる生き方で
結果を待つことなく
それをすれば叶えられるものであったので
ある意味、夢見たりする必要がなかった。

素晴らしい人生を目的とすれば
その人生が叶うのに
どれくらい時間がかかるかわからない。

よって素晴らしい人生について
あれこれ思ってしまう時間ができてしまう可能性がある。

これでは純粋なる実践にはならない。

だから初めの指針を決める時に
あれこれその指針から余計な思いが発生しないものに
した方がいいです。
(実践中、実践に余計な思いが発生しないという
自信があるのなら
目的もある意味、モチベーションとはなります。
目的を設定してしかし
実践中は実践そのものに集中します。)

私には「自分を捨てて」が実践に付随していますが
これも余計な思いが発生するのを防ぎました。

実践に関係ない思いは実践には必要ありません。
本物の実践をするのであればですが、、。

軽い気持ちで
人生をちょっと充実したいものにするためなら
自由度は広がります。

その自由とは例えて言えば
思いの自由です。

しかし、そうであれば
あっち行ったりこっち行ったりになるので
得るものは徹底しているよりは
少なくなります。

例えて言えば
努力の程度が得るものの程度を決める
ということです。

そしてどうするかは
自由です。

※(しかし、本物はどれも徹底しているもんです。
例えばスポーツでもそうですよね。)



「私はどうしたらいい?
どう生きればいい??」
こう問うている時はモヤモヤしていました。

このモヤモヤすらも
次の生き方につながるということです。

一生モヤモヤして生きるか
それともそれにきちんと向きあって
そこから得た方法を頑張って生きるか

この違いは大きいです。


私は元々自我がとっても強く
周りに影響されたくない自分がいました。

「自分が!」が強い人で
そして人から何も言われたくない人で
自分の困難を
人の力を借りず克服したいというのが
私の実践内容の根底にあります。

自分の力で克服したい!
人の力でなく!
というのが強かったです。

だからこそ自分の生き方にこだわり
周りの人のせいにせず
ひたすら自分の決めた指針を守ったのでした。


まぁ、とってもとっても
エゴが強かった。

そのおかげで今があるのです。


エゴを善に活かせばいい。

エゴが強い人はラッキーです。

そしてそれをどう生かすかが大切です!


エゴを変な方向に活かした場合、
その変な方向はある意味一時的に叶うかもですが
カルマの視点では大失敗です。
なんどもカルマの輪をぐるぐる回らなければなりません。
その成就は永遠には続かない。
それでいていつかしっぺ返しがやってくる。

本物の成就がいいと私はずっと思っていました。
だから目先のちょっとした幸せを捨てて
ひたすら実践でした。

ちなみにこの「本物の成就がいい」という思いは
実践を続けるモチベーションにはなりました。
しかしそれはくじけそうになったときに使っただけで
すぐに手放しました。
実践中は実践に必要ない思いは
発生させてはならないのです

私の場合なら実践に必要な思いは
「喜んで!」
これのみ。

「本物の成就がいい!」
と夢見ながら
「心から喜んで!」は
できませんよね。


「本物がいい!」と
「喜んで!」に
自分の意志を使っているので
自分の意志が分散していることになります。


集中できていない
ということです。





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善なる道を歩いている方へ

清き善なる道を歩いている皆様へ


私もそうしてきたうちの一人です。

自分の善に従い
嘘偽りなく
まっすぐに生きることは

うまく生きている人に比べて
損をすることがあるかもしれない。

うまく立ち回っている人に比べて
不器用かもしれない。


実際私もそうだったかもしれない。

(、、、しかし、そうであったとしても
自覚がその頃はなかったのですが(笑)
ある意味あほだったんです(笑)
しかし、今ならわかることなくわかる。
そうだったのです。)



しかし、
騙すより騙される人でよかった。

私は人を騙さなかった。

責めるより責められる人でよかった。

私は人を責めなかった。

利用するより利用される人でよかった。

私は人を利用しなかった。



変な人、と言われて離れていく人がいたとしても
それでよかった。

なぜならそんな変な人にも
いつも誰かそばにいてくれる人はいたから。

そばにいてくれたその人に感謝です。



こういった積み重ねは
自分の善に従った
後悔ない生き方でありました。
(これは今だから言えることであり
実践中は自覚なく
一生懸命っていうのかな、
そんな感じでしたけど)

今、私はとても清々しく
悔いはもちろんない。


私の行ってきたことで
私自身を責めることもない。

(善に逆らった行動をすれば
必ず自分を責める時がくる)


もし、私の言動で
思いがけずに傷つけてしまった人がいなら
ほんとうにごめんなんさい。

しかし、だからこそ
そんな誰かの力に
なれたらいいな
なんて思うのです。



真面目にあほみたいに
しかしがんばることなく
=当然として当たり前に
自分の良心に従って
生きました。


人や周りをコントロールしようと思ったことは
全くなく
(私以外の人やものをコントロールしようとすることは
私のなかでは悪でした)
コントロールすべきものは
自分の心でありました。

そして制御しつづけ
それを超えたところに
それはありました。

(なんでも極めれば
極めた「それ」になるのです。
悟りまで行かなくても
名人、プロにはなれるはず)

コントロールとは
善なる規律を守ることであり
自由勝手に心を彷徨わせず
善なる方向へ常に向かせること。

「よくないことはしない
いいことをしよう」

と自分の心に決心し
そう生きました。


本当に本当にそう生きられてよかった。


私は今、本当に清々しいです。


そうやって善を守って
生き抜いたからです。


善の存在に感謝いたします。

悪も善も
いいも悪いもない
よってなんでもあり

なんていう思想は
悟りの道から全く離れています。

この思想は
人を惑わすだけです。

そう言う人は
自分の善なる心に
嘘をついています。

必ず善なる心はありますから。

なのに「ない」なんて。

その善が生きる指標となるのに
存在する善を
見て見ぬふりして「ない」と言う人は
嘘をついています。

嘘をついてしまっている。

この時点で
悟りから離れてしまっている。


そして、余談ですが
悟ってしまえば
善も悪もありません。


そんな感じかな。


@(*・ω・*)ポッ










プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



 admin






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