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スピリチュアルについて TK師の言葉



TK師が掲示板に書かれた内容を
ここでも紹介させていただきたいと思います。

ちなみにその元は こちらの掲示板の20、21です。


じっくり読んでいただいたらと思います。



反論がある方はどうぞ!

「いいや。このスピリチュアルで至れた!」
という人の話 歓迎します!


ここよりそのまま引用です。


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆



ニューエイジ - Wikipedia (2013年4月13日 (土) 03:03 UTC)より


>すべてでひとつである。
>偶然というものはない。
>弟子の準備が整ったとき、師匠は現れる。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。
>与えたものが返ってくる。
>すべてのものは聖なるものである。
>人には無限の潜在能力が備わっており、自分で自分の現実を作る。
>どんな現象も、自分がそれに与える以外の意味を持たない。(現実は中立である)
>アファーメーション(確認する)

この教えの主だった使い物にならない個所を説明しますが、恐らく理論も何もわからない者の手による、
(エゴにとって)都合のいい部分のみのごちゃ混ぜの寄せ集めなのです。

聖典でも、賢者と言う人の言葉の中にも、
実践方法と達成した後の変化した楽な状態と両方の記述が出てくると思いますが、
この編集をした者たちは実践方法ではなく、賢者の言葉の達成した後の楽な状態の記述を拾っています。
例えば次のあたりです。

>すべてでひとつである。
>しなければならないことというものはない。
>善悪というものはない。
>信じる必要はない。
>努力はしなくてもよい。


>すべてでひとつである。

このような言葉を「自分」が消えていないスピ系と思われる方が、
酔って良い気分になって振り回しているのを見たことがありました。
しかし、これは達成した者にとっては「自分」が消えているので、一つなのであり、
聖典や賢者はこれは実践方法としてではなく、達成した後の状態として語っているはずです。

達成する前の者が、自分の遭遇する「現象」と「自分」を対等な位置においていたら、
いつまでも「自分」は無くなりませんので、実践方法としては「現象」にたいして「自分」の立ち位置は下なのです。
「すべてでひとつである。」この言葉は実践方法としての方便ではありません。


>しなければならないことというものはない。

これも達成した後の者はこのようになると言う事であって、達成前の者は、
戒律など守らなければならない実践方法を「自分のしなければならない事として」決めて
確実に実践しなければ辿りつけません。


>善悪というものはない。

これも、以前、達成もしていない者が、酔っぱらって良い気分で、「善悪と言うものはない」と
この言葉を振り回しているのを見たことがあります。

しかし、これは厳密にいうと仏罰レベルの行為です、
釈迦の説いた善悪の相対を利用した実践法を無効にしてしまう、悪魔的な内容です。

ダンマパダ183
>すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、──これが諸の仏の教えである。

達成した後の状態として、同じ聖典の次の「善悪のはからいを捨てて、目ざめている人」の説明なのですが、
エゴに憑りつかれている者から、この達成した後の言葉だけが抜き取られたのです。

ダンマパダ39
>心が煩悩に汚されることなく、おもいが乱れることなく、善悪のはからいを捨てて、目ざめている人には、何も恐れることが無い。


>信じる必要はない。

これも至った後の人の状態であり、これが至る前のスピ系かぶれらしき方の口から
自分が信じないための言い分けとして振り回せれていたように思います。
ちなみにラピ。さんは、「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」ので至れたのです。
至った後は「信じる」対象が無くなるので、「信じる」と言う行為そのものが無くなります。

参考までに次は聖典の至る前の人向けの実践方法の記述。

スッタニパータ184
>「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」


次は同じ聖典の信仰を激流を渡るための筏(イカダ)に譬えて、激流を渡ったから信仰(筏)を捨て去れと説いているのです。

スッタニパータ1146
>(師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、
>そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」


スピ系と思しき至ってもいない此の岸の者が「信じる必要はない」などと口にする事そのものが、
絶対に私は至れませんと言う証明のようなものであり、こちらからすると理論も何もわかっていない
彼らの態度は見るに忍びない。

>努力はしなくてもよい。

「無努力の境地」も、至った後の者の状態です。

スッタニパータ79
>努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。


聖典並び賢者の言葉をでたらめに拾い集めた結果、中には使えるものもあったとしても、
混ざりこんだ不純な部分が結果として、全体を全く何も使い物にならない内容にしてしまっているのです。
特に私が目にしたスピ系と思しき人たちは、私のここで取り上げた汚れた部分を教えとして
振り回す人を多く見たように思います。

このような言葉に振り回され続けた酔っ払いの方々、ご苦労様でした。
いつまでも寄り道して暇人そうに遊んでいないで、次に進んだ方が良いのかもしれませんよ。
真剣に求める人にとっては、この方々の取っている行為は迷惑千万なのです。

今は科学の時代ですから、昔に宗教と言う形で説かれていたものを、
同じ形ではなく「理論」で説かなければならない時代です。
これが言葉どおりの「ニューエイジ」「新しい時代」です。

>私が話しする事など、何ら変わったことではありません、
>昔の人が当たり前に使いまわした言葉をそのまま同じに話しするだけですから。
>
>苦しみ、努力、我慢、忍耐、厳しい、これらは昔から人間を作る上で必要なものとされてきたと思います。
>
>私の話しするのもこれだけです。
>
>全然変わってないですよね。
>
>そして、何の事は無い、これを積み重ねる事が悟るための方法なのです。



引用ここまで。


☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆。+゜☆゜+。☆



>ちなみにラピ。さんは、
「内面にある僅かな疑いも捨てさせて、私を信じる方向性で導いた」
ので至れたのです。

至った後は「信じる」対象が無くなるので、
「信じる」と言う行為そのものが無くなります。



との師の言葉ですが全くその通りです。

私が最後、激流を渡る決心をして
(実はこれは勝手に決心しました)
5月12日の夜から激流に一人で飛び込みました。

そして13日のお昼に師あてにメールで
激流に飛び込んだことを報告し、
そのまま続けて激流へ。(=ひたすら実践)

その13日の晩に至ることができました。



まさしく師を信じて、覚悟の上でした。

未知の世界に渡るのだから
何も予想ができないのです。
保証もありません。

でも師を信じて行く決心をしました。

=ひたすら実践です。


その実践ができなくなるまで
なにがなんでも永遠にし続ける、という
最後の決心でした。


そして至ると、その激流を渡っている「自分」が消えるので
至ったことが師匠に言われなくてもわかりました。

そしてその実践は
本当に最後の実践となりました。


師匠を信じて渡り終えた後は
もう、「信じる」対象がなくなります。

これも師匠の言われている通りです。


私はすべてをなし終えて
至りました。

(*・ω・*)ポッ


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ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



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