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精一杯


みなさんこんにちは!
@(*・ω・*)ポッ


私の書いていることについて
または私について
いろいろ判断したり
評価したりすることは
その行為をしている人に
その行為が起こっています。

ただそれだけです。

何のために私を評価しているのだろうか。

私を評価することが
その方の生活の役に立つのだろうか。

意味がない。



私の書いている言葉を
必要とされている方がいたら
どうぞ、使ってください。
そしてそれがその方の生きることの
お役に少しでも立てたら
うれしいです。

しかし、人それぞれなので
私の方法が合わない方もいらっしゃると思います。

そういう方は
また別の道がいいですね。

私のかつての道は
自分なりに精一杯生きる道です。



私の書いている言葉に
反論があるのなら
私に反論しても意味がないので
どうぞ、私の言葉は捨てて
自分の日常を生きてください。


気に入ったら使っていただき
気に入らないのなら捨ててください。


ただそれだけです。


ちなみにかつての私には理想があって
その理想を現実的に生きました。
(何度も書いてますね)

空想して終わったり
今いる環境に文句を言って
そこから逃避するために理想論を語ったりするのは
大変もったいないことです。

少しづつでいいので
今できることから始めて
それをずっと続けるつもりでやっていたら
気づけばかなりのことができるようになっているはずです。

本とか鵜呑みにしないで
自分が「そうかも」と思ったら
実際やってみました。

本による知識を得て満足するのではなく
その知識を実際に使って
いろいろ試してみました。

私はそうしました。

せっかく人として生きてこられたのだから
後悔ないよう
自分なりに精一杯私は生きました。


ただそれだけです。

@(*・ω・*)ポッ



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Comment

ラピ。さん、こんばんわ

始めまして、Goodwillと申します。
ブログを読ませていただいていて、何だか自分のために書いてくださっている?
そんな何とも言えない不思議な感覚を感じました。

物心ついた頃から宗教という名のスピ環境が常に自分と共にありました。
中学生の頃に自らの意思で、とある密教系の宗教団体に入会し、色々な神秘体
験を経験するなどして、30年弱はそこそこ幸せな信仰生活を送っていましたが、
さまざまな矛盾に目を瞑れなくなって信仰に行き詰まりを感じていた頃に、事
業で大失敗をやらかしました。

現実の生活が逼迫し、長年の心の拠り所だった信仰も見失いかけていて、本当
に人生が煮詰まっていました。
なんとか出口を探しもがいているなか、出会ったのが原始仏教でした。
優れたブログのお陰で、原始仏教が説く内容は、今まで自分が信仰していた
仏教(密教)という宗教とは異質の、「覚醒とその実践」について説かれてい
るものだと云うことが解りました。
今までに習得してしてきた仏教(密教)のスキルを駆使して体当たりしたとこ
ろ(本当はこのやり方はNGみたいです)、今の自分の心は以前からすると信じ
られないくらい穏やかになりました。

でも、まだ自分の心には、上手く掴みきれない「何か」が残っています。
外から何か強い刺激を受けると、心が余計な妄想を始め、苦しみが生じます。
そうなった場合は、真剣になって格闘するモードに入って暫くがんばると、取
り敢えずは一時的に収まるということが経験的に解かりました。
でも、もう何度も何度も同じことを繰り返していますので、心底ウンザリして
きています。
心が静かになっている状態が崩れない、「苦の消滅」をどうにかして実現でき
ないか真剣に考えるようになりました。

もしかしたら自分は思い上がっていて、まだ「苦の消滅」への道の入り口にも
立っていない状態なのかもしれません。
それでも今のこの状態は、原始仏教を学んで自分なりの善なる道を見つけられ
、その善なる道へ向かった結果だと確信していますので、これからも弛まず歩
き続けていていこうと思っています。

覚醒された方々の言われていることは、自分の理解の及ぶ範囲を超えているこ
とが多いのですが、自分はラピ。さんの実践から学ぶことが沢山あると感じて
います。

これから折に触れてコメント投稿させていただきたいと思っておりますので、
いろいろとお教えいただけたら幸いです。
  • 2014-12-12│01:21 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
e-278  Goodwillさんコメント ありがとうございます!

Goodwillさん、ようこそいらっしゃいました。

>ブログを読ませていただいていて、何だか自分のために書いてくださっている?
>そんな何とも言えない不思議な感覚を感じました。

私も師匠に似たような言葉を伝えたことを思い出しました。
Goodwillさんの言葉、懐かしく、うれしいです。

>物心ついた頃から宗教という名のスピ環境が常に自分と共にありました。

そうなんですね。
私の場合、宗教には全く縁がなかったのですが
いろんな神秘的(というのかな)なことに興味がありました。

私の始まりも小学校高学年の時です。
子供の頃からGoodwillさんもその道を歩いているのですね。

>今までに習得してしてきた仏教(密教)のスキルを駆使して体当たりしたところ
>(本当はこのやり方はNGみたいです)、
>今の自分の心は以前からすると信じられないくらい穏やかになりました。

私もいろんな本を読んで、自己流で挑戦しました。
この自己流は危険を伴います。

私の場合、この時点では
誰の意見もアドバイスも求めておりませんでした。

何としても自分の力でやり遂げたかった。
一人ぼっちの道でした。

そして自分の思いを貫きました。

(最終的には師匠のおかげで今に至れたので
一人では私は無理でした。
しかしこの頃の経験が大変役に立っています。)

GoodwillさんのNGというのは、どういう点でNGなのでしょうか?
しかしそのスキルがGoodwillさんの道にとって
この先のヒントとなります。

私も自分の強い信念のもと
実践をやり切りました。

大変危険な道でした。
だから一般的にはNGとされると思います。

それはかなり厳しい道でありましたが
もう引き返すことはできなかったので行くしかありませんでした。


>心が静かになっている状態が崩れない、
>「苦の消滅」をどうにかして実現でき ないか
>真剣に考えるようになりました。

ヒントをお伝えすると、私の状態は
「心が静かになっている状態が崩れない」
のではなく
その「心」が消滅している状態です。

「苦の消滅」とは
言い換えれば
苦のもととなるものが消滅した状態であり、
そのもととなるものが「心」です。

それが実践により、思いがけず
消滅してしまいました。

「思いがけず」もヒントとなる言葉です。
  • 2014-12-12│12:56 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
ラピ。さん、こんばんわ

すみません、書き込みが遅くなってしまって、ラピ。さんの次のブログ投稿
に殆ど答えを書いていただいているのですが、下書き状態で保存してあった
コメントを投稿させていただきます。


>私も師匠に似たような言葉を伝えたことを思い出しました。
>Goodwillさんの言葉、懐かしく、うれしいです。
暖かい歓迎のお言葉、ありがとうございます。
ラピ。さんが師匠に言われた言葉と同じニュアンスのことをお伝えしたとは、
何かとても光栄です (^^>


>GoodwillさんのNGというのは、どういう点でNGなのでしょうか?
>しかしそのスキルがGoodwillさんの道にとって
>この先のヒントとなります。
とても貴重なアドバイス、ありがとうございます。
「本当はこのやり方はNGみたいです」というのは、言い方が安直でした。
正直にいうと、今のところとても有効に機能していますので、このやり方が
全面的にNGだとは思っていません。
いずれ先に進む段階では手放さなければならないものという思いがあり、こ
ういう言い方になってしまいました。
いまの実践は、ちょっと力ずくで心を鎮めているといった感じです。色々な
スピ系の方に自分の状態を見てもらったところ、共通してリラックスが必要
ということを言われています。
なので、今の段階では実践方法を抜本的に捨てるのではなく、リラックスす
るためのひと工夫が必要なのかなとも考えています。


>それが実践により、思いがけず
>消滅してしまいました。
>
>「思いがけず」もヒントとなる言葉です。
「心を力鎮める」実践も、極めると「心の消滅」に至ると原始仏教では説い
ていますが、この実践方法を指導してくれるところは見当たりません。
原始仏教の解説ブログで「心を力鎮める」実践について触れられてまして、と
ても期待していたのですが残念ながら更新が停止してしまいました。
「心の消滅」に直接アプローチする実践を指導すると標榜しているところは、
幾つかああるのですが、本やHPに書かれている内容に微妙な違和感を感じて
いまして、行くのを躊躇っています。

ラピ。さんのブログは、4年くらい前に原始仏教の解説ブログを読み始めた頃
から知っていましたが、その頃は原始仏教で説かれてる「今までの仏教とは全
く異質の教え」の理解に傾注していたので、あまり深くは読んでいませんでし
た。
最近の書き込みを読ませていただいていて、とても心に響くことが沢山書かれ
ていたので、コメントさせていただきました。


>それはかなり厳しい道でありましたが
>もう引き返すことはできなかったので行くしかありませんでした。
それがとても大変な道であることは容易に想像できます。
今にして振り返ると、「心を力鎮める」方向の実践を始めたときに、生まれて
初めて本当に「自分を捨てる」ことに全力で取り組んだのだと思います。
「自分を捨てる」って本当に難しいですね。
おそらく、少しは捨てられたものの、完全には捨て切れなかったから、今のよ
うな状態になったのではないかと思っています。
不安定な状態を終わらせたいと言いながら、なかなか実践に入らないのは、
「自分を捨てる」実践が心底ゾッする本当に苦しい経験だったからです(これ
がエゴの働きでしょうか)。

かなり低いレベルの結果かもしれませんが、自分なりに確証は得ました。きちん
とゴールにたどり着ける目処がたったのなら、もう一度同じ体験を繰り返すのは
決してやぶさかではありません。
ずっと続くけど、そこそこの努力で済む不安定な状態への対処を続けるか、ある
いは心底ゾッする本当に苦しい思いを経験をしながら、開放への実践に入るか。
今のところ躊躇していますが、突き詰めると今の自分には後者の道しか選択肢が
見当たりません。
  • 2014-12-13│23:17 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
Goodwillさん

ヒントとしてお伝えします。


>いずれ先に進む段階では手放さなければならないものという思いがあり、
>こういう言い方になってしまいました。

なるほどです。

ちなみにもし、その実践が本物であれば
手放す必要はなく
最終的にはその実践そのものがなくなってしまいます。


>いまの実践は、ちょっと力ずくで心を鎮めているといった感じです。

なるほどです。
Goodwillさんの意志の力、強そうですね。

>色々な
>スピ系の方に自分の状態を見てもらったところ、
>共通してリラックスが必要ということを言われています。

今のスピ系の流れではそうでしょうね。

しかし、今スピ系やっている人で
至っている人はいないと言っても過言ではありません。


>なので、今の段階では実践方法を抜本的に捨てるのではなく、
>リラックスするためのひと工夫が必要なのかなとも考えています。

釈迦も言っていますが彼岸の前には激流があります。

さて、この激流は
リラックスしている状態を言っているのでしょうか。

実践として、リラックスせよと釈迦は言っていたでしょうか。
修行として、です。


>「心を力鎮める」実践も、極めると「心の消滅」に至ると原始仏教では説い
ていますが、
>この実践方法を指導してくれるところは見当たりません。

私は原始仏教をほとんど知らないのですが
確かに何でも極めることは消滅につながると思います。


>原始仏教の解説ブログで「心を力鎮める」実践について触れられてまして、
>とても期待していたのですが残念ながら更新が停止してしまいました。

Goodwillさんはその実践をして
今の状態になったのですか?

たしか、密教のスキルを駆使したんでしたっけ?


>ラピ。さんのブログは、4年くらい前に
>原始仏教の解説ブログを読み始めた頃から知っていましたが、
>その頃は原始仏教で説かれてる
>「今までの仏教とは全 く異質の教え」の理解に傾注していたので、
>あまり深くは読んでいませんでした。

4年前に、もう読んでくださっていたのですね。
ありがとうございます。

その頃の私のブログは実験を兼ねておりました。
今からすると、すっとんきょうな内容でした。

しかし、その頃は大まじめでした。

かつてのブログはスピ系まっしぐらの内容で
仏教についてはほとんど知りませんでした。

今もほとんど知りません。
師匠に教えてもらった少しのことだけです。


>今にして振り返ると、「心を力鎮める」方向の実践を始めたときに、
>生まれて初めて
>本当に「自分を捨てる」ことに全力で取り組んだのだと思います。

Goodwillさんも取り組んだのですね。


>おそらく、少しは捨てられたものの、完全には捨て切れなかったから、
>今のような状態になったのではないかと思っています。

なるほどです。

>不安定な状態を終わらせたいと言いながら、なかなか実践に入らないのは、
>「自分を捨てる」実践が心底ゾッする本当に苦しい経験だったからです
>(これがエゴの働きでしょうか)。

ええ。
本気で進めば心底ゾッとする経験になるでしょう。

そして言われている通り
それはエゴの働きです。

もし、かつての実践が今有効に働いているのなら
(そしてかつての私と同じ状態であれば)
同じ実践をしても
今ならある意味簡単にできてしまう可能性があります。


>かなり低いレベルの結果かもしれませんが、自分なりに確証は得ました。

なるほど。
かつて、私は確証は得ることができませんでした。
興味深いです。

>きちんとゴールにたどり着ける目処がたったのなら、
>もう一度同じ体験を繰り返すのは決してやぶさかではありません。

なるほどです。


>ずっと続くけど、そこそこの努力で済む不安定な状態への対処を続けるか、
>あるいは心底ゾッする本当に苦しい思いを経験をしながら、
>開放への実践に入るか。

ちなみに今のGoodwillさんの不安定な状態とは
どんな感じでしょうか。
どれくらいの頻度で不安定はやってきますでしょうか。

落ち着いた状態の時を
言葉で表すとどんな感じですか?


Goodwillさん、上にも書きましたが
彼岸の前に激流があります。

緩流ではなく激流です。

これはほぼ例外がないと言っていいと思います。
私もそうでした。
  • 2014-12-14│01:16 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
ラピ。さん、こんばんわ

長いコメントでゴメンナサイです m(__)m
余計なことを書いたのを消したのと、反対の意味になっているところがあったので、修正しました。

>私は原始仏教をほとんど知らないのですが
>確かに何でも極めることは消滅につながると思います。
ラピさん。本当にありがとうございます。
「何でも極めることは消滅につながる」、この一言を頂いたお陰で、原始仏典
を誤読していたことがわかりました。
自分にとっては、これがファイナルアンサーだと感じます。


>釈迦も言っていますが彼岸の前には激流があります。
>
>さて、この激流は
>リラックスしている状態を言っているのでしょうか。
>
>実践として、リラックスせよと釈迦は言っていたでしょうか。
>修行として、です。
いいえ、決してそのようなことはありません。
「放逸にならずに勤めなさい」という事をおっしゃっていまして、まさしく
今の自分に向けられたものです。
実践の方法に疑問を持ったこと、経典を誤読していたこと、ブログの解説に
頼ろうとしたこと、リラックスに向こうとしたこと、これらのことは「放逸」
に向かおうとする自分のエゴの働きだと思います。
自分の実践方法は「心を鎮める」ことで、その内容は「1つの対象を決め、
ひたすら心をその対象に集中」することです。
次の課題と感じている「対象の消滅」が起きるなら、今の実践方法を変える
必要は無さそうです。
---余計な事を書いたので一部を削除しました。

>ちなみに今のGoodwillさんの不安定な状態とは
>どんな感じでしょうか。
>どれくらいの頻度で不安定はやってきますでしょうか。
>
>落ち着いた状態の時を
>言葉で表すとどんな感じですか?
落ち着いた状態の時は、心のコントロールがし易いです。これは誰でも当た
り前のことですが、それが以前とは比べてかなり容易になりました。
その根本は「強い欲と強い怒り」が「弱い欲と弱い怒り」になったからだと
感じています(完全に無くなってはいません)。
心のコントロールはし易いのですが、その半面でモチベーションが低くなり
まして、何か行動を起こすには、課題がないとやりづらくなりました。

感受性が鈍化しているかというと、そういうこともなく、むしろ以前より敏
感になっている感じがしますが、五感で受けた刺激が長く続かない、こうい
う表現が一番妥当でしょうか。
この状態のときに心を意識的にコントロールするのを止めれば(これが出来
ないです)、心の動きが無くなるかと思い、そのやり方を求めて「リラック
ス」などの方向を考えてしまいました。


常に自分の心の状態をチェックするようにしていますが、本気で実践に入ら
ざるを得なかった時以来、強いストレス(ここでは詳細を書けません)とな
る物が常に何かしら発生していまして、年に一度くらいの割合で心のコント
ロールが難しくなることがあります(不安定な状態)。
こうなると、心が勝手にストレスの対象に集中することを止めることが出来
なくなります。
ストレスがあると、それに呼応するように「楽」を感じるものを求める心が
動き出します。
それを叶えればストレスが消えるかというと、このレベルまできてしまうと、
あまり効果はないようです。
「楽」を求める心と「怒り」が混ざった行動が暴飲暴食だと思います。暴飲暴食の自制
は何ら難しくないのですが、「怒り」からくるちょっとした言葉のコント
ロールは本当に難しいです。

このときの状態は、心に汚れが纏わりついている感じです(昔はべったりと、
付着している感じでした)。


>かつて、私は確証は得ることができませんでした。
>興味深いです。
至られたラピ。さんが途中の段階で確証を得られていなかっとは、本当に
ビックリです。
最終的に指導を受けられたとはいえ、この道をほぼ独学で歩み終えたラピ。
さんはどれだけの努力をされたことしょう。自分なりに本気で取り組んで
きただけに、その重さが計り知れません。
ラピ。さんを心より尊敬いたします。
こうして色々とアドバイスしていただけていることは、本当に稀有なことだ
と思っており、感謝しています。

有用な情報となるかどうか解りませんが、ご興味がおありのことについて
書かせていただきます。

確証を得られていたのは、原始仏教というロードマップを見ている特典かも
しれません。
ラピさん。は「対象の消滅」という実践を書かれておられますので、おそら
く原始仏教で説く「識別作用の消滅」を達成され、4つの段階を経由しない
で、いきなり最終段階に入られたのだと思います。
原始仏教というロードマップに従って実践していくと、4つの段階を順番に
経ていくようです。
経典をよく読むと、特定の段階になると現れる解りやすい特徴のようなもの
があることに気がつきます。
その特徴に捉われると、その特徴が現象または幻覚として現れることがある
ようなので要注意なのですが、目安になると思います。
ここの所で何か懸念されていることがおありでしたら、どうぞご指摘くださ
るようお願いいたします。


自分の場合、今となっては恥ずかしいやら懐かしいやらの思いでですが、
「もう何も要らない、この『絶対的な幸せ』があれば、後はどうでもいい・・・」
という思いに満たされた至福の時を体験しました (^^;
これが最終段階とは思わなかったのですが、もうこの状態になったら心が揺ら
ぐことはないと本気で思っていました。
この直後に物凄く強いストレスがかかり、この至福の時は短い間で終わってし
まい自分の境涯を思い知らされたのですが、確実に前に進んでいるという大き
な自信(確証ではないです)になりました。

今にして思うと本当に運が良かったと思います。
あの感覚に長いこと浸っていたら、とても強い執着が生まれたでしょう。
人生の残り時間全てを費やしてでも追い求めていたかもしれません。
まあ、それはそれで幸せだったかもしれませんが・・・
  • 2014-12-15│01:19 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
このコメントは一度削除します
  • 2014-12-15│23:16 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
Goodwillさん、おはよございます。

コメント見ていただけましたか?

そのコメントはとりあえず今は
削除しときますね。


また必要な事柄があったら
教えてね。


「放逸にならずに勤めなさい」

この言葉は簡単に見える内容かもしれませんが
本当に実践することは
実は大変です。

シンプルな言葉に真理があります。

どうぞ、清き道を。
  • 2014-12-17│07:55 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
感謝です
ラピ。さん、こんばんわ

>コメント見ていただけましたか?
はい、拝見させていただきました。
お手間をかけてくださったコメントに深く感謝です <(__)>

とても暖かな思いやりと、細やかな配慮をしていただいていると感じまており
ます。
その上で切れ味鋭く問題の本質にせまっておられまして、やはり「本物」は凄
いなーと実感してます(原始仏典を読んでいるときに感じるものと良く似てま
す)。
要らん事をだらだらと書く癖があるので、必要であろう情報を最小限コンパク
トにまとめるよう心がけていました。
読み直してみると、余計な事ばかり書いてしまっていて、肝心なことを書いて
いなかったりするですが、とても的確な視点からのアドバイスを頂いておりま
して、モチベーションが一気にアップしました。
本当にありがたいです。


>また必要な事柄があったら
>教えてね。
ラピ。さんには実践で大切なポイントをたくさん教えていただいています。
必要なことがありましたら、いつでも (^-^)


>「放逸にならずに勤めなさい」
>
>この言葉は簡単に見える内容かもしれませんが
>本当に実践することは
>実は大変です。
『悪いことをやめること。善いことに至ること。
 自分の心を清らかにすること。これらが諸仏の教えです。』
(日本テーラワーダ仏教教会のHPから引用)
原始仏典で説かれる諸仏の教え(八正道)は、本当にこれだけだと思います。
諸仏の教え(八正道)の実践は、とても簡単そうに見えて実はとても難しい
とも言われます。
これはどのレベルを目指すのかにも依るのではないでしょうか。
最高レベルを目指すからには、それに応じた強い意志・志(こころざし)が必
要なんだと思います。
ラピ。さんの強靭な意思の強さと、熱い志(こころざし)はブログからひしひ
しと伝わってきました。
独覚(他から教えを聞かずに悟りを開く人)に近いお方なのですから、間違い
なく利根の者ですね。

対して自分は、意思は決して弱くはないものの、ムラがあります。
また志(こころざし)もありますが、何度も折れてます。
もう何度この道をあきらめようと思ったことか、どれだけの時間立ち止まった
ことでしょうか、わかりません。
それでも、この道を最後まで歩きたいと思っていて、またこうしているわけ
です。

自分も小さな頃から漠然とではありますが「人の役に立ちたい」という思いを
抱き続けてきました。
社会に出て苦労するようになってからは、自分と同じ苦しみを味わっている人
に手を貸してあげたいという具体的なものになりました。
この具体的な思いはとても良いものですが、「まずは自分がきちんと安定しな
いとならない」という当たり前のことに気がつくまで、30年くらいかかったで
しょうか。

また原始仏典に出会って「人の役に立ちたい」という思いは、「生きとし生け
るものが幸せでありますように」という慈悲の瞑想にとても役立ちました。
慈悲の瞑想を修練するうちに、本当に実現したいと真剣に考えるようになりま
した。理想論ではなく、現実の答えを求めてです(正気でないと言われたら、
「そうですね」って答えます♪)。
こういう所で原始仏典が説く法(教え)の完成度の高さを思うのですが、ちゃ
んと答えが書いてありました。
というか、この道を歩む者たちへ向けて、徹底的に考え抜かれいる感じです。

自分はラピ。さんのように利根の者ではありません。
尊敬するチューダ・パンタカ(周利槃特)長老が凡夫であった頃ほどではあり
ませんが、鈍根の者です。
この道を歩み終わった者は、利根の者はもちろん、鈍根の者でも、等しく「生
きとし生けるものを幸せにする」という壮大な想いを実現できる者になります
(ラピ。さんにはその理由が自明のことと拝察いたします)。

ラピ。さんはお気づきになられていて、問いかけて下さったのかと思いますが、
最後までこの道を歩みきりたいという想いは、ここから始まっています。

「たとえ歩みは遅くとも、歩み続ける限り、必ずたどり着く」そう信じて歩み
続けます。
  • 2014-12-18│02:27 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
Goodwillさん、こんにちは!

>『悪いことをやめること。善いことに至ること。
>自分の心を清らかにすること。これらが諸仏の教えです。』
>(日本テーラワーダ仏教教会のHPから引用)
>原始仏典で説かれる諸仏の教え(八正道)は、本当にこれだけだと思います。

はい!

>諸仏の教え(八正道)の実践は、とても簡単そうに見えて実はとても難しい
>とも言われます。

はい、厳密にそれを守るのなら厳しい道となるでしょう。
しかし、本当にその道を歩くものは
厳しいものも厳しいと思わず、精進するでしょう。


>これはどのレベルを目指すのかにも依るのではないでしょうか。

その通りだと思います。

私の場合、至ってから初めのほうは
激流について書いておりましたが
それが必要ない方もいらっしゃると感じました。

今のこの世界で心穏やかに生きていく方法もありますね。

私の場合、前世とかはほぼ全く覚えていないのですが
たぶん、いろんなことを経験して
同じことの繰り返しをしている自分が心底いやになり
もうそれを終わりにしようという
自覚はほとんどなかったものの
実践時はそれが根底にあったのだと思います。

もし、今のこの世界で幸せに生きられるのなら
それが一番いい。

だから、みんなに幸せに生きてほしいと思います。

私については、この世界に疑問を持ち
それを突破したかった、のだと思います。


>最高レベルを目指すからには、
>それに応じた強い意志・志(こころざし)が必要なんだと思います。

ちなみに私の強い意志は
最高レベルを目指そうというものではなく
自分の中の問題に向き合うことによって生じた思いを
やり遂げよう、というものでした。
シンプルです。


>ラピ。さんの強靭な意思の強さと、
>熱い志(こころざし)はブログからひしひしと伝わってきました。

ありがとうございます。


>独覚(他から教えを聞かずに悟りを開く人)に近いお方なのですから、
>間違いなく利根の者ですね。

「利根」ってなんだっけ?と調べてしまう私です。(笑)

「仏の教えを聞いて修行しえる能力のこと。」でいいかな?

ちなみに私流にそれを表現すると
「自分の善なる心に正直にひたすら実践する人」かな?

私はある意味、人に意見は求めず
自分を信じて進みました。

例えば一般常識っぽく「そこまでしなくていいやろ」なんて言葉は
私は聞きませんでした。
よってとことんできたのだと思います。

私の実践中は誰にも聞かず
本当に自分を信じてのみ進みました。


>対して自分は、意思は決して弱くはないものの、ムラがあります。

意思はなかなか強いと思います。

>また志(こころざし)もありますが、何度も折れてます。

そうなのですね。

>もう何度この道をあきらめようと思ったことか、
>どれだけの時間立ち止まったことでしょうか、わかりません。

そうなのですね。
しかし、無駄なことは何一つないと思いますよ。

全ては経験すべきことだと思います。

>それでも、この道を最後まで歩きたいと思っていて、またこうしているわけ
です。

うん。Goodwillさんにはやり遂げられる力が
あると思っています。


>自分も小さな頃から漠然とではありますが
>「人の役に立ちたい」という思いを抱き続けてきました。

うん、うん。

>社会に出て苦労するようになってからは、
>自分と同じ苦しみを味わっている人 に
>手を貸してあげたいという具体的なものになりました。

うん。


>この具体的な思いはとても良いものですが、
>「まずは自分がきちんと安定しないとならない」
>という当たり前のことに気がつくまで、30年くらいかかったで しょうか。

なるほどです。

>「まずは自分がきちんと安定しないとならない」

ちなみにそれってスピ系が入ってますか?
安定とはなんでしょうか。
いわゆる、自分が幸せでないと人を幸せにできない、のようなことですか?

でもそうなると、いつ実践できるのでしょうか。

日常の中で人のために役立つ行動をすることは
探せばあります。

例えば
周りの人に挨拶することは
善行のひとつですね。

安定しなくてもやろうと思えばできるのではないでしょうか。

安定しないとできない、は
それ自体が自分の行動を妨げる悪魔の声です。

もちろん、体調が悪い時に無理することは禁物ですが。


ちなみに、世の中の人のために教えを説くとなると
まずは悟ってからです。
(安定すること、とは、このことを言っていますか?
それならそうですね。
ちなみに悟ってしまうと実践はできません。
でも教えを説くことを
説かずにできるようになりますからね。)

偽の教えを説くことは最悪の罪・誹謗正法の行為だと
あるサイトに書かれていました。
その通りだと思います。

余談ですが、自称悟っているとして
運営されている掲示板を見たのですが
残念なことがたくさんありました。

私から見たら激流のチャンスを持っていて
視点はほぼ間違っていない人に対して
自称悟っている人は
私からしたらハチャメチャなアドバイスをしておりました。

そのチャンスを持っている人も
ある意味、見る目がないので
自己責任といえばそうなんですが、、。

そして悟っていないのに悟っている
と言っているところが問題です。
自称覚者にとっても何もいいことがありません。

(無駄な経験はない、という視点で
長い目で見たらいいのかもしれませんが
すごく長く時間がかかるかも。

下手したら永遠にそのまま。

それ以上があることを知らぬまま、
悟ったと思い込んで終わる可能性大です。

気づけばまた別ですが。)

この掲示板は最近はまったく見ておりませんので
それからどうなったかは知りません。

ちなみにですが 私は思いもがけずこの状態になりました。

かつての実践についても、起こった出来事も
師に教えてもらってなんとなくわかり、
それによって最後、進むことができました。

最終的に激流に飛び込む決心をしたのは
師匠の言っていることがわかんなくて
師匠と同じ場所(例えです)にたどり着きたい
という思いからでした。

私は第2の実践終了で 
ある程度「楽」は実現していましたので
(これも師に教えてもらった)
師に出会わなければ、第4の実践はできなかったと思います。

本物の師から見ると
かつての中途半端な私は全くダメダメで
本物だからこそ、わたしの状態を的確に見ることができました。

よって本物と接することは大切なんだと思っています、どの道でも。


>また原始仏典に出会って「人の役に立ちたい」という思いは、
>「生きとし生けるものが幸せでありますように」という慈悲の瞑想にとても役立ちました。
>慈悲の瞑想を修練するうちに、本当に実現したいと真剣に考えるようになりました。
>理想論ではなく、現実の答えを求めてです

はい。
そうです、自分の理想を理想論とせず
この世界にそれを実現させるという思い、これこそが「道」です。

>(正気でないと言われたら、「そうですね」って答えます♪)。

私の場合は、人に何も伝えず実践していたので
人にあれこれ言われることはなかった。

っていうか、言われたくなかったので言いませんでした。
言う必要もわかってもらえる必要もないと思ってました。

そして「変わってるね」って言われたくなかった。

ここはかつての私の強くもあり、弱いところでもありました。

しかし、ヒントですが
この私の特性が第2の扉を開きました。

人それぞれ特性があります。

だから人まねでない(人を参考にするのはいいけど)
自分を生きなければなりません。

自分を生きれば自分のカルマの解消につながります。
私は私の弱いところを突きつけられて
第2の扉が開かれました。

ここで逃げて現実逃避する人もいるかもしれません。

でも逃げたって「それ」はどうやってもあるんだ。
向き合うしかない、そう思いました。

逃げるって、私のポリシーに反するし(笑)


>こういう所で原始仏典が説く法(教え)の完成度の高さを思うのですが、
>ちゃんと答えが書いてありました。
>というか、この道を歩む者たちへ向けて、徹底的に考え抜かれいる感じです。

そうですね、経典はすごいです。

私は至ってまだ間もないので 
よちよちではありますが
いろいろやってみます。

「臨機応変」ですね。


>自分はラピ。さんのように利根の者ではありません。
>尊敬するチューダ・パンタカ(周利槃特)長老が凡夫であった頃ほどではあり
ませんが、
>鈍根の者です。

「鈍根の者」
そうであるかないかは別として
自分がそうだと思っているのなら 
それをいかせばいいと思います。

自分を知ることは強みになります。

ただし、気を付けなければならないことは
それを言い訳にしないことです。

鈍根の者だから仕方ない、なんて言い訳はダメです。

鈍根の者だからこそ、こうしよう、という方向性がいいですね。

(Goodwillさんには言うまでもないと思いますが)

ちなみにチューダ・パンタカ(周利槃特)について
知らなかったので調べました。

このお方の実践、なるほどです。

やはり、決めたことを極める、これですね。


>この道を歩み終わった者は、利根の者はもちろん、
>鈍根の者でも、等しく「生きとし生けるものを幸せにする」という
>壮大な想いを実現できる者になります
(ラピ。さんにはその理由が自明のことと拝察いたします)。

ええ、ぜひがんばってください。
応援しています。


>ラピ。さんはお気づきになられていて、問いかけて下さったのかと思いますが、
>最後までこの道を歩みきりたいという想いは、ここから始まっています。

うん、分かります。

私の道の始まりも、人間として当然の思いから始まっています。

思いをきっかけとして実践としていく。

素晴らしい生き方です。

自分を使って実践していく、生きていくことが
この世に生まれた意味です。

この世に生まれたからこそ、それができるのだから
チャンスを逃してはなりません。


>「たとえ歩みは遅くとも、歩み続ける限り、必ずたどり着く」

ええ、その通りです。
私がそれを証明していますので絶対大丈夫です。

(ちなみ私が実践を続けられた思いの一つが
「絶対的幸せを得られることの証明を私がしたい。
そして私ができれば、誰もがきっとできる。」
というものでした)

あきらめなければ必ず道は開ける、何も知らなくとも。

>そう信じて歩み続けます。

Goodwillさんにはそれができると思っております。


ちなみに
人は自分の思いを書くと、それで満足してしまうことがあります。
これがある意味、一般的なストレス解消法ともなりますね。
でも解消しておわり、では実践者であったらダメですね。

そのエゴの動きを見抜き
これからも精進されますように。

実践を妨げるものはエゴの動きです。

それに打ち勝って実践し続ける、
私はそういう道でした。

ますます清き道を。

どうもありがとうございます。

@(*・ω・*)ポッ
  • 2014-12-18│19:29 |
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No title
メリークリスマスです(⌒▽⌒)

ラピ。さん、ラピさんのブログを読まれた方々が幸せでありますように。
(至られたラピ。さんに申し上げるのは、失礼かな?と思いつつ・・・)


>実践を妨げるものはエゴの動きです。
とても大切なポイントを教えていただいたこと、感謝してます。
具体的には表現しづらいのですが、今はブログにコメントする前のとき
よりも心が安定しています。
安定しているからといって、手を休めてしまってはNGなので、ここか
らが本当の勝負どころと思ってます。

自分の実践は複雑なことはしてなくて、基本は1つのことに集中するこ
とです(集中の対象が何種類かあります)。
集中があるレベルに達すると、自分が何をしているのかの意識がなくな
ります(もちろん、ボーっとしているわけではないです)。
この状態はとても心地よいのですが、なかなか自由にその状態に入るこ
とはできないです。
その前の段階(自分が何をしているのかの意識がある)でも心地よくて、
この状態にはほぼ自由に入ることができ、毎日実践してます。

自分は集中するための支えとして、視覚よりも、聴覚の方が使いやすい
です。
今は道具なしでも集中に入ることができるようになりましたが、最初の
ころは音楽が大きな役割を果たしていました。
パイプオルガンの音色が大好きなので、バッハをテーマとしたパイプ
オルガンのコンサートにいったりとか、教会のオルガンミサに参加した
りしたところ、良いレベルで集中できることが判りました。
自分の場合、音楽を使うと集中のレベルを上げるのを助けてくれるのは
間違いないようですが、今後は余暇を楽しむものと位置づけるべきもの
でしょうか。
あるいは実践の一部となるものと捉えても良いものでしょうか。
実践に資する、資さないの認識は大事なものの、それに拘りすぎるのも
NGと、思考のループに入ってしまっています。
至られたラピさん。の視線からご教授いただけましたら幸いです。


余談なんですが、ラピ。さんのブログにコメントを書く勇気がでたのは、
最終的にはスピ的な感覚によるものです。
原始仏教に辿り着く直前にも経験したのですが、最近またキリスト教の
方面にとても強く惹かれるものを感じています。
原始仏典を読むようになってからは全く興味が無くなっていた、お守り
的な形のある物が欲しくてどうにも止まりませんでした (^^;
自分の中に湧き上がる想いを良く調べたところ、ハッキリとは解らない
のですが「青」のイメージがありました。
少し調べたら「青」がイメージにあるのは当然と判ったのですが、絵画
で使われる最上の「青」がラピスラズリを砕いたものと知り、ラピスラ
ズリのネックレスと、まあイメージに近いお守り的な形のある物を探し
出しオーダーしました。
何か判らないけど、強い衝動がこれで解決するならいいやと思っていた
ところで、ふとブックマークしてあったラピ。さんのブログを思い出し
ました。

書かれている内容がとても参考になることは頭に入っていたのですが、
久しぶりに拝見してビックリしました。
テーマカラーは「青」なんだぁ。えーと、お名前はラピスさんじゃな
かったっけ?
なんてこと考えてたら、あれ、これって・・・

何か自分の中にあるイメージと繋がった感じがしまして、コメントを書
かせていただいた次第です。

またまた長くてゴメンナサイ m(__)m
  • 2014-12-25│01:59 |
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No title
Goodwillさん、皆様
メリークリスマス!


>ラピ。さん、ラピさんのブログを読まれた方々が幸せでありますように。


ありがとございます。


>具体的には表現しづらいのですが、
>今はブログにコメントする前のとき よりも心が安定しています。


そうのような感じですね。


>安定しているからといって、手を休めてしまってはNGなので、
>ここからが本当の勝負どころと思ってます。


はい。その通りです。


>自分の実践は複雑なことはしてなくて、
>基本は1つのことに集中することです
>(集中の対象が何種類かあります)。


集中の対象が何種類かあるとのことですが
今集中してみて楽ちんに集中できる対象はどれですか?

具体的にここにお返事は書かなくていいです。

そしてヒントとしては楽ちんにできるところ、
例えば集中しようとしても
集中にならないほど楽な対象は
これからの実践とはなりませんので
除外したほうがいいと思います。


>集中があるレベルに達すると、自分が何をしているのかの意識がなくなります
>(もちろん、ボーっとしているわけではないです)。
>この状態はとても心地よいのですが、
>なかなか自由にその状態に入ることはできないです。


私がお伝えできることは
これからGoodwillさんがどう進みたいかによります。


>その前の段階(自分が何をしているのかの意識がある)でも心地よくて、
>この状態にはほぼ自由に入ることができ、毎日実践してます。


この時の状態で日常を過ごしている、という感じでしょうか?

それとも実践時だけ、その状態、という感じですか?


>自分は集中するための支えとして、視覚よりも、聴覚の方が使いやすいです。

なるほどです。

ちなみに私は視覚も聴覚も使っていませんでした。

何の支えもなくひたすら集中に集中しておりました。



>パイプオルガンの音色が大好きなので、
>バッハをテーマとしたパイプオルガンのコンサートにいったりとか、
>教会のオルガンミサに参加したりしたところ、
>良いレベルで集中できることが判りました。


この世界で生きていくのには
役に立つ集中力かもしれないですね。

それを日常にも生かせるといいですね。


>自分の場合、音楽を使うと集中のレベルを上げるのを助けてくれるのは
間違いないようですが、
>今後は余暇を楽しむものと位置づけるべきものでしょうか。
> あるいは実践の一部となるものと捉えても良いものでしょうか。


ここもGoodwillさんがこれからどうしたいかによって
お伝えすることが変わります。



>実践に資する、資さないの認識は大事なものの、
>それに拘りすぎるのもNGと、思考のループに入ってしまっています。


確かにそうですが
まずは、自分でじっくり考えて
どうするかを決めたほうがいいと思います。

まず、これからどうしたいですか?

そして決めたら迷わずゴー!です。


ここでヒントですが
何度かお伝えしたと思いますが
彼岸の前は激流です。



ちなみに私が師匠に出会えたのも
スピリチュアルをしていたからです。

だから、ほんと無駄なことはないんだなって思っています。


私の実践としては(ご存じだと思いますが)
4段階あります。

そのうちスピリチュアルやってた頃、
ブログを書き始めて至るまでを
3段階の実践と言っています。

しかし、至る実践としては
第1、2、4になります。

第3の実践は私なりにいろいろやったのですが
確かに無駄なことはありませんでしたし
それがあったからこそ
師匠に出会えました。

また第3はこの世界の「愛」や「富」を求める実践でもあったのですが
それを精一杯したおかげで
この世界に未練が全くなくなりました。

そして次に進めた

第4の実践に飛び込むことができました。

よってどんなことも精一杯することは
大切だと思います。

精一杯が大切だと思います。
  • 2014-12-25│23:06 |
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  • [edit]
No title
ラピ。さん、こんにちわ

いつも丁寧なコメントをお返しくださり、ありがとうございます m(__)m

なんだかラピ。さんは、こちらの様子を全てご賢察のように感じるので
すが、ひと通り書かせて頂きます。


>集中にならないほど楽な対象は
>これからの実践とはなりませんので
>除外したほうがいいと思います。

了解です( ̄ー ̄)ゞ
あまり得意ではない対象も取り入れつつ取り組みます。

自分の拠り所である原始仏典の勉強が手薄になっていることに気がつきまし
たので、経典に書かれている方法に則って深く取り組むようにしていきます。

歩くことについて(瞑想についてではありません)書かれた英文の原始経典
「Cankama Sutta: Walking」の日本語訳を、激流にいる真っ最中に読む機会
がありました。
その中に「歩くことによって達成された落ち着ちきは、長時間持続される」
ということが説かれていましたが、確かにそのとおりでした。
本当に苦しい時に身を持ってその効果を実感したので、今も継続しています。


>この時の状態で日常を過ごしている、という感じでしょうか?
>
>それとも実践時だけ、その状態、という感じですか?

ここ最近はバランスが取れていて、余計な想念が湧くことも殆どないので、心
が捕われの身となることもなくなり、日常は特に大きな苦も楽もない(のびの
びとした自由)という感じです。

集中の実践(自分が何をしているのかの意識がある)は、行いやすい状態です
が、心にある細かなものを引っ張り出して、そこに意識をフォーカスしていっ
たら、今の状態は簡単に崩れると思います。


>まずは、自分でじっくり考えて
>どうするかを決めたほうがいいと思います。
>
>まず、これからどうしたいですか?

はい、おっしゃるとおりですね。
この道を歩み続ける気持ちは固まっていますが、すぐに激流に飛び込むまでの
覚悟ができてないというのが正直なところです。
自ら飛び込まなくても、そう遠くないうちにまた訪れるだろなと、漠然と感じ
ています。
それに備えてというのもおかしな話ですが、きちんと継続できることを選んで
修練を重ね、確実にスキルアップしていこうというのが今のところの考えです。
まあ、あんまりノンビリしていると、この生が終わっちゃいますけど…


>ちなみに私が師匠に出会えたのも
>スピリチュアルをしていたからです。
>
>だから、ほんと無駄なことはないんだなって思っています。

こう言っていただいたお陰で、心がスッキリと軽くなりました。
原始仏教に関わる方々は、密教やスピリチュアル的なことに対して、かなり厳
しいご意見をお持ちのように見受けられます。
確かに原始仏教の方向性は、現世利益とほぼ真逆のベクトルを持っていること
理解できますし、自称覚者と称する方々に関わってしまった場合、どれだけの
遠回りになるか想像できません。
そうしたことを踏まえてのご意見なんだろうと推察するのですが、やはりその
ままでは受け入れる事ができなくて、心の中にモヤモヤしたものがあったんで
すが、ラピ。さんの一言で自分なりに解決しました。

余談ですが、この道を歩む人は素直な心が必要ということを沢山聞いてきまし
たが、それよりも何よりも先ずは選択する目(直観)が必要ではないかと最近
になって思うようになりました(ある意味矛盾してます)。
全て自己責任による世界だからこそ成り立つと思うのですが、自称覚者の
方々や、それに乗っかろうとする方々などなど、ホントいろんな輩がゴロゴロ
いるのを目の当たりにしてきましたので…


>よってどんなことも精一杯することは
>大切だと思います。
ラピ。さんが何度も書いて下さっている「清き道」を逸れることの無いよう、
十分に気おつけながら、1つ1つ積み重ねていこうと思ってます。
  • 2014-12-29│14:15 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
Goodwillさん、こんにちは


>自分の拠り所である原始仏典の勉強が
>手薄になっていることに気がつきましたので、
>経典に書かれている方法に則って深く取り組むようにしていきます。


経典、本物そのものに触れることは大切だと思います。
経典の解説などを読むのではなくて
経典そのものです。

ちなみに師匠から勧められた経典があって
そのひとつが「ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2」でした。


>その中に「歩くことによって達成された落ち着ちきは、長時間持続される」
>ということが説かれていましたが、確かにそのとおりでした。
>本当に苦しい時に身を持ってその効果を実感したので、今も継続しています。


継続は力なり、ですね。


>ここ最近はバランスが取れていて、
>余計な想念が湧くことも殆どないので、
>心が捕われの身となることもなくなり、
>日常は特に大きな苦も楽もない(のびのびとした自由)という感じです。


なるほどです。
その状況で生活している、という感じですね。


>集中の実践(自分が何をしているのかの意識がある)は、
>行いやすい状態ですが、心にある細かなものを引っ張り出して、
>そこに意識をフォーカスしていったら、今の状態は簡単に崩れると思います。


なるほどです。


>心にある細かなものを引っ張り出して、
>そこに意識をフォーカスしていったら、


そこを知っていて、そこをあえて避けている状態ですね。
そこに集中するのがある意味怖いのですね?

そこがかつての激流と関係しているのかな。


>この道を歩み続ける気持ちは固まっていますが、
>すぐに激流に飛び込むまでの覚悟ができてないというのが正直なところです。


ええ、そのようですね。


>自ら飛び込まなくても、そう遠くないうちにまた訪れるだろなと、漠然と感じ
ています。


そうなのですね。
ではその時が踏ん張り時ですね。


>それに備えてというのもおかしな話ですが、
>きちんと継続できることを選んで修練を重ね、
>確実にスキルアップしていこうというのが今のところの考えです。
>まあ、あんまりノンビリしていると、この生が終わっちゃいますけど…


そうですね。
このままではそのままかもしれません。

しかし、今はまだ「その時」ではないようですから
仕方がありません。

今できることを精一杯やっていくことがいいと思います。



>原始仏教に関わる方々は、密教やスピリチュアル的なことに対して、
>かなり厳しいご意見をお持ちのように見受けられます。


本格的に修行をしていくとなると
スピリチュアル的なことに対しては私も厳しい意見です。
(密教については私はあまり知らないので
何とも言えません。)

ただし、その厳しい言葉は修行していく、精進していくと
本気で決心した人へのみに伝えることであって
この世界で普通に生きていく中では
ある意味、スピリチュアルは勇気をくれるものかもしれません。

そしてそれを十分経験して初めて
開く扉もあります。


ただし、都合のいい解釈のスピリチュアルはダメです。
ええ、かつて私もそれをやってみました。だからわかります。

それをやってしまうと
自分の善なる判断が鈍ります。

例えば「なんでもあり」というスピ系の教えがありますが
それは自分の感性を鈍らせます。

「善も悪もない」という教えもそうです。

そもそも「善も悪もない」と言った時点で
その人に「善」と「悪」の判断があるはずなのですが
それを無視しろ、と言っているようなもんです。

至った人にとってはもちろん善も悪もないのですが
至る前の人にとっては善や悪があるのですから
その自分の素直な気持ちを無視して「善も悪もない」という人たちは
かつて師匠が言っていた「酔っ払い」という人たちです。

一種の嘘つきです。
素直ではありません。


ちなみに私もやってみた、と書きましたが
私がなにかを実践とすると決めた場合、
どんな時もそれをし続けました。

「する」と決めたら起きている間は
その姿勢を崩しません。

徹底しています。

なぜなら「実践」であり
一種の修行だからです。

よってその実践による気づきも早くなります。

時間を無駄にできませんでした。

私にとっては「ぼー」っとする時間は
とてももったいなく
ボーっとすることなく常に意識的に選択し続けていました。

「そんなにがんばらなくてもいいじゃない?」
という声が出てきたら無視です。

私はもともと「自分を捨てて」をモットーとしていたので
「そんなにがんばらなくてもいいんじゃない?」
という声はほとんど聞きませんでしたが。



>確かに原始仏教の方向性は、
>現世利益とほぼ真逆のベクトルを持っていること理解できますし、


そうです。
いかに得るかではなく
いかに捨て去ることができるか、
が至る道です。(最終段階)


>自称覚者と称する方々に関わってしまった場合、
>どれだけの遠回りになるか想像できません。


そうですね。
しかし、残念ながら自称覚者を本物として関わる人は
こちらからお伝えしてもほとんど伝わらないので
どうしようもありません。

でもその人のそれがカルマなのかもしれない。

ならば、とことんするしかないんだろうなと思います。

ちなみにこの時の自称覚者の教えが
善なる道をそれている時、
更なる遠回りになります。

ぜひ、少なくともどの方も
善なる道を選択してほしいです。



>余談ですが、この道を歩む人は素直な心が必要ということを沢山聞いてきましたが、
>それよりも何よりも先ずは選択する目(直観)が必要ではないかと
>最近になって思うようになりました(ある意味矛盾してます)。


素直さは大切ですね。

そしてGoodwillさんの言われていることですが
ある意味、矛盾していません。

選択する目(直感)のその基準が素直な心なのです。
(私の第一の実践決定時もそうでした)

例えばですが「嫌なことはされたくない」は
誰もが持つ素直な気持ちだと思います。

「嫌なことはしてほしくない」
どんな人も感じる当たり前のこと。

嫌なことをされてうれしい人はいない。

では、素直にそう思うのならどうしたらいいか。

「されたら嫌なことは私はしない」
という選択ができます。

それが道となる。生き方の指針となる。

まずは素直な善なる心があって
それによって自分の進む道を選択できるのです。

善なる心による
選択をしていくのです。

(ただし、この素直な心は実践時の段階によって
内容が変わってきます。)


ちなみにGoodwillさんが言われている
選択する目(直感)というのが
本物か本物ではないかの見極めであるのなら
これは確かに一種のセンスかもですが
これも私の場合、素直な感覚より発生しています。

私の場合、もともと師匠を求めていませんでした。

また一般的に「本物」とされている人にも
興味がありませんでした。(素直な気持ち)
教えには興味がありましたが。

よって覚者(自称も含めて)の言葉に対しては私の場合、
「そうなんだ」と受け入れ
まずはやってみました。

しかし、その「そうなんだ」の選択は
やはり自分の善が根底にあります。

私の納得するものでなければなりませんでした。
自分の実践とするのですから当然です。

そして自分の善なる素直な気持ちに従い
素直に受け入れやってみるのです。

それはある意味、(自称)覚者に対しては
素直ではないかもしれませんが
自分の気持ちには素直でした。

、、と言うか自分を信じていたんだよね。


>ラピ。さんが何度も書いて下さっている「清き道」を逸れることの無いよう、
>十分に気おつけながら、1つ1つ積み重ねていこうと思ってます。


はい。
がんばってね。


今のGoodwillさんの最善は
今の実践を徹底してやっていくことでしょう。

大切なことは「徹底して」、です。

なんでも徹底してやっていけば
気づきを得られるでしょう。


ちなみにその気づき(一瞬のひらめき)を得ることが
悟りだと勘違いされている方がいました。

何度も書いていますが
「気づきを得る」こと自体、
まだ対象が残っている状態です。

しかし、その気づきは次の実践のきっかけとなるものですので
ある意味、大切です。

気づきで終わることなく
それを次の実践のきっかけとします。
(それで悟ったという人は気づきだけで終わってしまい
何も変わらない)

素直に実践し続け
そこから得られた気づきを活かし、さらに実践をしていく。

今は自分を信じて素直に
ただただ実践し続けることが大切だと思います。


ちなみに
Goodwillさんの今されている実践は
例えば今の状態を保つための実践でしょうか。

それとも至るための実践?

何の目的もなく
ただただ実践している方向性がよいです。

今の状態を保つため、とか
至るため、という目的が根底にある実践では
厳密に言えば実践に集中できていません。
  • 2014-12-30│13:11 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
ラピ。さん、こんにちわ。

年の瀬で何かとお忙しい中
お手間を掛けていただきましたこと感謝いたします。


>経典、本物そのものに触れることは大切だと思います。
>経典の解説などを読むのではなくて
>経典そのものです。

はい、さすがです。
たとえ話ですが、自分は技術系の仕事をしていまして、
いわゆる純正の技術解説書と、それに関わる人たちが書いた参考書、
活用事例などの書籍を読む機会がたくさんありますが、どの書籍も100%信用
することはできません。
純正の技術解説書だけでは理解しにくいから参考書、活用事例などを参照す
るわけですが、バグ(間違い)があって当たり前という前提で読まなければ
ならないです。
そもそも、純正の技術解説書にバグがあるなんてことも珍しくないです。

本題に戻りまして
経典には、経典を学ぶにあたっての注意事項というものが、しっかりと書か
れています。
たとえ話のような状態に陥ることを予見しておられたようです。
ラピ。さんの「経典そのものです」も、同じ視点からのご指摘かと思います。


>ちなみに師匠から勧められた経典があって
>そのひとつが「ブッダ悪魔との対話――サンユッタ・ニカーヤ2」でした。

お勧めの経典、ありがとうございます。
原始仏教を学習し始めた頃にざっと目を通したきりでしたので、これを機に
熟読してみます。


>そこを知っていて、そこをあえて避けている状態ですね。
>そこに集中するのがある意味怖いのですね?
>
>そこがかつての激流と関係しているのかな。
はい、そのはずなんですが、ちょっと意識をフォーカスしたくらいでは、
変化しませんでした。
あまり深追いしたくないところなので、無意識に避けてるのかもしれません。


>しかし、今はまだ「その時」ではないようですから
>仕方がありません。
>
>今できることを精一杯やっていくことがいいと思います。

スミマセン、今頃になってやっと「取り組むべき課題」が判りました。
ラピ。さんは前回のコメント返信で「これからの実践とはなりませんので」
と言われてました。

いま「生じた苦」は大人しくなってますが、「苦の発生元(=自我)」は
手付かずです。
最初にブログにコメントしたときは、この2つの違いをきちんと認識できて
いませんでしたが、それを教えていただきました。
違いが認識できたなら、次は「苦の発生元(=自我)」に対してのアプローチ
を取る流れでなければおかしいのですが、今までとほぼ同じ事をしますと
表明しています。

「止」(ひたすら集中)で突破する方法と、「止」と「観」(観察する)、
「観」のみを使うなど、経典に説かれている幾つかの方法を詳細に検討して
然るべきところなのですが、『集中のプロであるラピ。さんがおられるし、
「止」で突破できるなら』それで行こうなどと考えてしまいました。
安易な考え方でした、申し訳ありません。

どの手法が一番自分にあっているか、まずは経典をじっくり読んで考えたい
と思います。


>ちなみに私もやってみた、と書きましたが
>私がなにかを実践とすると決めた場合、
>どんな時もそれをし続けました。

実践においてラピ。さんに比肩できる方って、まず居ないのではないでしょうか。
実践のためのロードマップ(原始経典)などを何も持たず、
最終の地(仮の表現です)まで無事に辿り着くって、凡俗には不可能です。

今は最終の地まで辿り着かれた方が稀有な状態です。
ラピ。さんは歩まれた軌跡を公開されており、
そしてなにより直接お話させていただける場を設けて下さっていること、
この上無く貴重だと思います。


>まずは素直な善なる心があって
>それによって自分の進む道を選択できるのです。

この部分は「実践の道の選択」のつもりで書いたのですが、
本当に見事な解説をしていただきました。

原始仏教では実践のロードマップに、八聖道という名前がついています。
(正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、
 正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想)

八正道の順番どおりに実行するという解説を読んだのが頭にあったので、
最近のご時世を自分になりに見回したとき、
「素直な心」よりも「選択する目(直観)」なのかなぁって、ポロッと
本音をつぶやきました。
そうしたら、ラピ。さんが「本物か本物ではないかの見極め」まで含めて
ビシッと解説して下さいました。
もう、ただただ脱帽です <(__)>


>Goodwillさんの今されている実践は
>例えば今の状態を保つための実践でしょうか。

大変失礼をいたしました。
ラピ。さんの言われている「実践」は、自分の思っていたより遥かに厳しい
レベルを指していました。

自分の行っていることの言葉を曖昧にすると遠回りになりそうなので、
経典類より専門用語を引用させてください。

一つの柱は「密教の一印明」です。
もう一つの柱は『原始仏教の瞑想の実習(「四念処」と「四無量心」)』です。

原始仏教の実習では瞑想を大きく分けて2種類(「止」と「観」)とするので
すが、どうも実習方法が細分化されているようです。
今までのフェーズでは、2つの柱レベルで纏めて「集中の実践」という言い方を
していました。
2つの柱はどれも「多習」が推奨されますが、自分では特に「何かのため」とい
う定義(四無量心は方向性があります)はしてないです。

激流状態のときは普段のときと比べて密度がかなり濃くなりましたが、
それでもラピ。さんの言われているレべルとは比べようもないです。


>今の状態を保つため、とか
>至るため、という目的が根底にある実践では
>厳密に言えば実践に集中できていません。
ラピ。さんは「集中を極め切って至った」、実践者の魁です。
そのお見立に間違いは無いと思っております。



ラピ。様
毎回まとまりの悪いコメントに、丁寧なご返答を下さり、
本当にありがとうございました。
本物の至った方(自分は確信してます)と、直接お話させていただけたこと、
この道の端っこを歩く者には過ぎた果報と思っております。
今年も終わりに近づいた頃になって、人生最高のボーナスを戴いた感じです。
お願い事ばかりで恐縮ですが、また来年も色々とお教えいただけましたら
幸いです。

それでは、どうぞ善いお年をお迎えくださいませ。
  • 2014-12-31│12:51 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
Goodwillさん、みなさん

あけましておめでとございます!

今年もどうぞよろしくお願いします。
@(*・ω・*)ポッ


>いま「生じた苦」は大人しくなってますが、
>「苦の発生元(=自我)」は手付かずです。


これに関してですが、もし「苦の発生源」について
働きかける実践をしようとするのであれば
(Goodwillさんは違うかもしれませんが)
「苦の発生源」については気にしないほうがいいです。

そもそも今、Goodwillさんが「苦の発生源」、「自我」だと思っているものは
本当の苦の発生源でも自我でもありません。

今の状態では「それ」はわかりません。

「これだ」と思うのがあるかもしれませんが
残念ながらそれは100%違っています。

よって自分が思っている自我に働きかけようとする実践は
あまり意味がありません。

何度か書いたことがありますが
その自我が結果的に存在できなくなる状態を作る方法が必要です。

例えば私の場合、自分の声を無視し続けて
実践に集中することで
さらなる集中を極め
極めることによって「それ」は消滅しました。
(「それ」には集中しません。実践に集中します。)

「それ」は決して消滅するまでわかりません。
決して、です。絶対、です。

(しかし、至れば「なんじゃこりゃ」、です)

しかし、「それ」の代わりとして
「自分の声」を利用するのは有用です。

実践中、自分の声を無視します。

例えて言えば「自分の声」を聞く暇もないくらい集中します。
自分の声が発生する前に
「実践」するのです。

どんな時も実践し続けます。

「判断、解説、感情」それらは全部自分の声です。
それらを無視して自分の決めた実践に集中します。

心の中の独り言なんてもってのほかです。

集中そのものに集中するのです。

集中を妨げるものはすべて「悪魔」だと思って無視してください。
反応しないことです。



>どの手法が一番自分にあっているか、まずは経典をじっくり読んで考えたい
と思います。


はい、人それぞれだと思います。
そして決めたらまっしぐら、です。

ちなみにかつてGoodwillさんの
激流が起こった方法はなんでしょうか?

これから何かのきっかけで激流が起こった時
その方法のさらなる工夫が生かせる場合があります。


>八正道の順番どおりに実行するという解説を読んだのが頭にあったので、
>最近のご時世を自分になりに見回したとき、
「素直な心」よりも「選択する目(直観)」なのかなぁって、ポロッと
>本音をつぶやきました。


そうなのですね。

ちなみにその「順番どおりに実行するという解説」が
正しいかどうかわからないですね。



>激流状態のときは普段のときと比べて密度がかなり濃くなりましたが、
>それでもラピ。さんの言われているレべルとは比べようもないです。


そうですね。
本物の激流はそう簡単には起こせません。

ただし、かつてGoodwillさんは本物に近い激流に
飛び込んだことがあるのではないかと思っています。

ということはGoodwillさんは「道」を知っているということです。

しかし、それを思い出したところで
激流はそう簡単に起こらないでしょう。

それでも、あきらめなければ必ず
道は開けると思います。

Goodwillさん、どうそ、清き道を!
  • 2015-01-01│23:30 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
ラピさん、あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


>よって自分が思っている自我に働きかけようとする実践は
>あまり意味がありません。
>
>何度か書いたことがありますが
>その自我が結果的に存在できなくなる状態を作る方法が必要です。

はい、言葉が足らなかったですね。
以前は直接アプローチすることを考えていましたが、今は「結果的に存在で
きなくなる状態を作る方法」が必要なこと理解しています。
「結果的に存在できなくなる状態を作る」という表現は教典に出てきません
が、同じことを意図して書かれていると思われる経典を幾つか見つけてます。


>これから何かのきっかけで激流が起こった時
>その方法のさらなる工夫が生かせる場合があります。
「さらなる工夫」を事前に検討できたらよいのですが、その時点にならないと
手がつけられないかなと思います。


>ということはGoodwillさんは「道」を知っているということです。
>
>しかし、それを思い出したところで
>激流はそう簡単に起こらないでしょう。
そのとおりでして、自分で激流を起こそうとしても起こせないです。


>それでも、あきらめなければ必ず
>道は開けると思います。

整理は必要ですがピース(手法)は手元に揃っている(激流が起こらない限り)
ようですし、大きな遠回りを避けるための視点も教えていただけましたので、
あとは淡々と修練を重ねていきます。

ラピ。さん、いろいろと頓珍漢な質問に、丁寧なご回答とご指導をくださり
誠にありがとうございました。
  • 2015-01-04│01:39 |
  • Goodwill URL│
  • [edit]
No title
Goodwillさん


「放逸にならずに勤めなさい」

これは日常の過ごし方でもあります。

心のままにあっちこっちに好き放題では
放逸になってしまっています。

「放逸とは、悪を防ぎ善を修することに対してだらしなく、精進を怠ることである。」
(Wikipediaより)

あと、私が至ることのできたキーワードのひとつに
「下から」というものがあります。
これがなければ至ることはできなかったです。

「下から」とは簡単に言えば
自分は至らない、誰よりも一番下のものである、ということです。

そしてすべての人にご奉仕させていただく、という姿勢です。

本気で進みたければ
起きている間はどんな時も常に精進です。



お返事はいいですよ。

どうぞGoodwillさんの道を歩かれてください。
  • 2015-01-04│20:50 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]

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2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


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