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激流について

TK師のコメント
記事にさせていただきます!



*・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.:*・☆・

激流法にトライできる精神的な資格を持つ人は、
そうそう見かける種類の人たちでもないわけですが、
激流法も折角発掘したのに少しくらいポイントを明かしておかないと、
秘教の域に埋もれさせてしまう事になります。

「激流」とは苦行と同等の言葉と捉えてもらって構いません。

釈迦が苦行を否定したと間抜けが流行らせ、
それをまことしやかに信じる愚かな群れ。

釈迦は苦行を否定していませんし、
釈迦自身、苦行によって悟りに至るためのメンタルを整えた、しかし、
ラピ。さん同様にあと一歩、真のベクトルが無かった
だけです。


http://www.performanceship.com/blog/2008/07/post_3e48.html

(→リンク


苦行イコール激流の要素がある以上、
そこに何も効果が無い訳がないではありませんか、
常識で考えればバカでもちょんでもわかる事です。

どこかの間抜けが、
釈迦が苦行を否定したと嘘八百をばら撒いところから、
葬儀屋仏教とか全ての真髄の歪曲、緩流が流行ったと思います。

ヴィパッサナとはそもそも、激流(精神的な苦行レベル)でなければ
その実践の意図している効果は得られません。

この最大限に重要なポイントが全く外されています。

次の二つの経典を比較して何かに気が付きませんか。

増支部経典
>「もし、バラモンがタパスを行ない、それによって
>その人の善い性質が減り、悪い性質が増すようであれば、
>私はそのようなタパスをしりぞける。
>しかし、それによって善い性質が増し、悪い性質が減るようであれば、
>私はそのようなタパスを勧める」


相応部経典
>「不死に達するための苦行なるものは、
>すべてのためにならぬものであると知って、
>乾いた陸地にのり上げた船や艫のように、
>全く役に立たぬものである。
>さとりに至る道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、
>わたしは最高の清浄に達した。
>破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされたのだ」


ポイント
苦行自身を否定しないが、悪い性質が増す苦行は否定する。

不死に達するための苦行はためにならない。


バカな間抜けな人でもここまで手鳥足取り教えれば
わからないはずがありませんね。

釈迦自身が苦行によってメンタルを整えましたが、
「不死に達するため」、これは五上分結の無色貪の一種です。

つまり、無色貪に縛られた苦行にしろ行いは、
ためにならない事なんですよ、
これバカな人でも常識的にわかりますよね。

釈迦にとって、最大の命までかけた貪りの行為をした、
それが「釈迦にとっては苦行と言う行為だった」
という事なのです。

バカな人たち、だから阿羅漢にもならない盲人である
無資格者が、
やたらに経典振り回す行為は「豚に真珠」でしかなく、
おかげで末法の世を加速させる仏罰的な愚かな行為を犯すだけなのです。


五上分結
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%B8%8A%E5%88%86%E7%B5%90


つまり、「激流段階」の実践では肉体的な苦行にしろ、
精神的な苦行にしろ、実践のポイントは目的を持ってはならない。

常識から考えたらかなり難解な点です。

命がけの苦行にしろ行為を、
目的を持たずにできますか、と言う点です。

目的を持たずに、命をかけることが出来ますか、
という事です。

釈迦が悟れなかったあと一歩は、この点でした。

よって、釈迦の苦行仲間の五比丘も、
この真のベクトルの一歩を手に入れて次々と悟ることが出来ましたが、
この人たちにはあらかじめ苦行(激流)で整えた
メンタルの素地があったものと考えられます。

ヨーガでもウパニシャツドでも
苦行(タパス)は解脱の方法論として有効であるのに、
ヴェーダの達人とまで言われた釈迦が
苦行を否定するなどとうそぶく事は、
それは何もわからない者のバカな解釈というものです。

少し話が多くの人々には関係のない「激流」段階の修行法に触れましたが、
多くの人たちにとっては「目的」は必須内容ですから、
くれぐれも「目的」も持たないような行為はしないで下さい。

次第説法は釈迦の時代から重要なものとされてましたが、
これを無視する経典を振り回す仏教とか名乗る人たちは本当にバカですね。

次第説法では次第に従って、
真逆の実践法になるものが多いのです。

それを悟ってもいない盲人である者が、
自分の判断で好き勝手に、
拾ったり拾わなかったり分別してやってたら、
何でも詰め込むゴミ箱以下の人間が出来上がるだけです。

経典にはその人の次第によって、
拾ってはならない真逆な内容が沢山ありますが、
それも分からずに私の前に仏教を振りかざす
釈迦の真の教えを汚すゴミ箱のような人間が、
私の前にどれほどいた事か知れません。


例えば理不尽な事をされた時に、
その理不尽に対して 対策を練って、攻略法を模索する、
これがまっとうな人のやる事ですが、
そういう人間としてはあたりまえの事もしないで、
否定せずに受け入れるなどとやったら、
バカ丸出しですよ。

この2者、実はその人の次第によっては両方正しい実践法ですが、
次第によって、なのです。


その人の次第によって、その人に適切な実践法と
「メンタルの毒」になる実践法が真逆になるのです。


*・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.:*・☆・


TK師ありがとございます。

確かに激流については
誰にでも伝えられるものではないため
それについての資料や残っている教えは
少ないかもしれません。

私自身も激流を渡り終えた者ですので
それを記事にすることで
誰かの役に立つことができるかもしれません。


しかし、この激流
普通の人には害になる可能性があります。

私の場合、
激流というものを知らず
いつの間にか激流に飛び込んでいたのですが
(第一回目の激流)
この激流に飛び込むきっかけは
一言では表せません。

いろんな要因が絡んでいるからです。

しかし、ヒントになる一つの出来事について
書いてみようと思います。


私はなんでもチャレンジャーでした。
そしてエゴが強く
ある日なんでも自分の意志でしたいと思いました。

当たり前にできていたこと
何も考えずに当たり前に出来ていたこと

これをあえて
意図的にする実験をしました。


そしてこの実験をすることにより
私は
どんなことも無意識にすることが
できなくなりました。

当たり前に出来ていたことが
当たり前にできなくなってしまった。

何も考えなくてもできていたことが
自分が意図しないとできなくなってしまった。

よって私は「無意識」と
無縁になりました。

常に意識を働かせている状態です。
休むことは許されません。


私のすべてを
自分の意志が支配する形になった。
=安らぎは全くありませんでした。

もちろん、挑戦でしたので
安らぎは求めていなかった。

しかし、よって
起きている時間は
常に意識を働かせることとなる。

これにより、
私は意志=自我のみで生きることを選択したつもりでした。


しかし、
しかし、
甘かった。


たがが意志でした。

たががエゴでした。


意志もエゴも無能でした。

私が生きていることに関して
どれだけの意志が働いていたのだろう。

大したことなかった。

私の「意志」「エゴ」「自我」は
完璧に無能だった。

都合のいい時だけ
「自分の意志がやった」
と言えるだけのこと。

とことんこの実験をやってみればわかります。

私たちは実は
「何もしていない」
ということです。



しかし、この実験を真剣に始めてしまうと
もう、後戻りはできない。

残念ながら
最大に肥大したエゴは
意図し続けると選択した私にとって
逃げ道を一切許さなかった。

私はもう、普通に生きることは
許されなかった。

これは私のエゴへの挑戦であり
エゴから私への試練でした。



なんでもとことんしてみてわかることがあります。

私のこの実験は
誰にも勧められない。

激流に向かう可能性のある実験です。

(しかし、徹底的にしなければ
激流は無理ですが。
中途半端だと変に「わかったふり」で終わる可能性があり
害になります。)

しかし、もし、
今、別の方法で自我が最大に肥大した人がいたら
もう、行く道は一つです。

その人にはもう
激流しかない。


私がそうであったように。


この実験により
最大に肥大したエゴは
更なる実践により中途半端な消滅を経て
スピリチュアルへと向かいました。

そして最後
TK師による本物の教えから得たヒントを活かし
私の最終形の激流へ飛び込むこととなります。


(私の文は例えが多く使われています。
だからこの文を自分なりに解釈して
勘違いしたままこの実践をしてはダメですよ。)



ちなみに、スピリチュアルをしている方は
実はエゴが強いです。

私がそうでした。

「この教えが正しい」

と根拠なく信じたもの
疑ってみてください。

本当にそうでしょうか。

本や人からの受け売りではありませんか?


私はそうだった。

本当にそうだった。

「知っている」

これもスピリチュアルの本から得た情報でした。

そして「知っている」も試してみたけど
実は何も変わらず
単なる自己満足のみでした。

今だから言えますが
「知っている」
これは至った人が使うのであれば
全く違ったものとなりますが
至ってない人にとっては
スピ系でそう言ってしまうと
ドツボにはまります。

もちろん、日常の経験から「知っている」
と言うこと
仕事から得た経験により「知っている」
と言うことなどは
とても素晴らしいと思います。

なぜならそれはその人の経験であり、
そこから得た「知っている」だからです。

(ちなみにこの「知っている」も
実はコロコロ変わりますが。
例えて言えば医療の現場などもそうです。
常識は変わり続けています。)


しかし、スピ系に関しての「知っている」は
ほぼ思い込みです。

「悟りとは知ること」

「悟りとは差取り」

なんもわかってないなぁと思います。
(この言葉で検索したら
いろんな思い込みの記事だらけにヒットします)

そう言う人は
そうだと思い込んでいるだけです。

申し訳ありませんが
それは嘘です。

「悟りとは知ること」
「悟りとは差取り」

こう思っている人が多いので
それが正しいと思われていますが、、、。


これについて
また改めて記事を書きたいと思います。
(いつになるかはわかりませんが)

自分の経験から書きます。


@(*・ω・*)ポッ


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Comment

No title
誰しもが失敗というものはする可能性があるし、その
経験は多くの人に自らと同じ轍を踏ませないための知
識として提供できるものです。

釈迦が失敗をした、その失敗を活かした教えがあった
ので私はその難解な点を、引っかかる事も無くスムー
スに通過することが出来ました。

これは私が凄いのではなく、先達の残した知識のお蔭
です。

私は自らが、現実世界を憂い精神世界に希望を求めた
際、物質的ではない意識体から精神世界に関心を示す
ような状況から追い出された経験がありますが、これ
があるから今の私があります。

多くの人に私と同じ失敗の轍を踏ませないために、繰
り返しその注意点をお話しています。

当然に私もそうだったのですから、精神世界に逃げた
いだとか、宗教に頼りすがりたいとかその気持ちは分
かります。

しかし、それこそが地獄の穴への入り口であるという
事を、伝えています。

私が教えてもらって、その地獄の穴への入り口から生
還でき、まっとうに正規のベクトルで彼岸に辿りつく
ことが出来たように。

地獄に落ちたい人など居るはずがありません、だか
ら、精神(内面)世界や宗教からは離れる必要があり
ます。

内面世界とは元々、人間世界を真っ当に生きた人だけ
が、次に進むためのゲートであり、現実世界を全うに
生きたと言う資格も持っていないような者が、すなわ
ち「生天」の資格も無い者にとっては、そこには地獄
への入り口があるだけです。

そもそも苦行と言う言葉が嫌な人は、悟りはあきらめ
て下さい。

自ら人々のための秘教の発掘作業をするつもりで実践
しましたが、阿羅漢果に辿り着いて振り返ると、つく
づく釈迦が経典内で「激流」だ「激流」だと繰り返し
出てきますが、本当に生死をかけた苦行です。

釈迦の言う「激流」の表現は伊達や酔狂の単なる脅し
の言葉ではありません。

どうにも、仏教かぶれ者に、釈迦のこの「激流」と言
う言葉が目に見えて無い人を沢山見受けたのには驚き
でした。

みんな漏れなく死ぬまで酔っ払いコースの人でした。

現代在家でのカスタマイズ、どうしたら、生死の狭間
でいつ命を落しても不思議で無いような環境が在家で
作り出せるのか、この辺りの工夫が勝敗を決します。

そもそも、この言葉を聞いて及び腰になる人は、釈迦
が繰り返し経典で出てくる伊達や酔狂の言葉では無い
「激流」の意味が分かっていません。

釈迦当時も、在家でも臨終時に阿羅漢果に達した人が
いたわけですが理由は簡単です、死ぬ際の断末魔の苦
しみが在家にも当然に「激流」として作用するからで
す。

闘病生活の苦悩や死ぬ際に断末魔の苦しみを味わう人
がいますが、これもメンタルにおいて無意味な苦しみ
ではありません。

「激流」環境はいかなる場合でも、メンタルにそれ相
応の発展的な変化を及ぼします。

もちろん、私自らの宿命通で、過去世のその際のメン
タル変容を想起できているのでお話しています。

ですので、現代医学の薬で苦悩を減らしてご臨終と言
うのも、このあたりを全く考慮しない行為ですから、
いかがなものかと思うふしもあります。

私の知り合いのお父さんが亡くなった直後も、知り合
いの携帯にその亡くなった人から無言電話が何度もか
かってきたことがありました。

臨終時の断末魔の激流は、生きたいとか生存に対する
貪り、執着、思念等のいわゆる煩悩を落す作用があり
ます。

臨終時の断末魔の激流は、少しでも高次元にジャンプ
できるための現世でのラストチャンスです。

もちろん、阿羅漢になっている人は、激流は渡りお
わっいるので、安らかに薬で苦痛を止めてご臨終で問
題ありません。
  • 2015-09-23│10:24 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
TK師
ありがとございます。

>これは私が凄いのではなく、
>先達の残した知識のお蔭です。

しかし、先達の残した経典があっても
それを間違って捉える人が多い中で
TK師はお見事でした。

なにか先達の残した知識をきちんと活かせる
コツみたいなものはあったのでしょうか。

もしあれば教えていただけますか?

@(*・ω・*)ポッ
  • 2015-09-23│10:49 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
>なにか先達の残した知識をきちんと活かせる
>コツみたいなものはあったのでしょうか。
>
>もしあれば教えていただけますか?

経典は多くの人には害にしかならない、激流段階の事
が多く説かれてます。

それが阿羅漢にもなれない泥酔状態とも言える酔っ払
いが出てきた理由です。

このような場所で細かな事は公開できない事はラピ。
さんも知っての通りです。

いくらでも質問可能なこのような身近な状況にいてさ
えも、質問も来ないような、これが現状ですから、そ
れほどに真剣な人はいないと言うのが現代です。

激流段階は「命に代えても教えてもらいたい」、この
レベルの人にしか開示できません。

激流段階の人のテキストとしても釈迦の経典はそのま
までは不向きです。

出家至上主義的時代背景で説かれたもので、現代の在
家環境では、経典の説かれた背景の格差からそのまま
では使えません。

つまり、「激流」だ「激流」だと釈迦が何度も繰り返
しているにもかかわらず、「緩流」になってしまい肝
心の「激流」が手に入れられない、すなわちここの方
法では悟りは得られません。

この点を踏まえて、現代に至るまでに在家仏教と言わ
れる大乗等の原典改良の動きは、仏教が悟れる方法を
維持するためには必須の動きだと思います。

テーラとかいう所は仏教の化石としての価値はありま
すが、時代背景が釈迦時代と異なるのに、原典に縛ら
れる事は釈迦の本意とは異なっています。

釈迦は阿羅漢による原典改良を願っていたに違いあり
ません。

原典に縛られるのが釈迦の本意なのでは無くて、キリ
スト教であってもマザーテレサとかバーナーデッドロ
バーツとか阿羅漢はいるし、大乗、禅であろうとも阿
羅漢はいるし、テーラと言われるところにも阿羅漢は
いるし、ヨーガでもいるし、当然にこれ等の所で盲人
にしかなれない人もいるわけですが、釈迦は本質的に
は阿羅漢を出せる教えを説いたのであって、環境や時
代が変わったのに、釈迦在世時の原点に縛り付けられ
る事を望んでいたとは思えません。

現代は資本主義社会で釈迦当時ほど出家や宗教は、社
会での認知度が無いと思いますから、在家主流の教え
が無ければ使い物にならないし、釈迦が今に生きてい
たら、2,500年もの大昔に釈迦が説いたと同じ教えを
説くとは私には思えません。

妄想と切り捨てられても良いですが、このような私の
前に感応道交で釈迦が出てきた事を踏まえ、阿羅漢に
よる原典改良に真実の釈迦の教えが存在し、釈迦の教
えから外れているのは化石のままの原典だけを信じて
在家主流社会に持ち込んだ人たちの方です。

阿羅漢として物申させてもらえば、在家で原始仏教の
書籍だけを読んで、あるいは原始仏教を人や団体から
学んで実践して悟りましたと、そう言う人がいたらお
目にかかりたい位ですが、それ位に悟れる内容にする
ためにはカスタマイズしなければ、このままでは全く
使い物になりません。

やはり、その時代、その時代によって、教えには阿羅
漢果を得た者によるカスタマイズが必要です。

大パリニッバーナスッタンタ(ブッダ最後の旅)
>アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなっ
>たのちには、もしも欲するならば、些細(ささい)
>な、小さな戒律箇条は、これを廃止してもよい。


これは正法の期間にのみ通用する内容に思えます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8F%E6%B3%95

悟れない教えは、釈迦の真意ではありませんから、像
法の時代には大乗の動きが出てきて当たり前ですね。

我々が激流段階では目的を持ってはならない、悟りを
目指してはならないと繰り返して言ってますが、大乗
の龍樹などは、釈迦の引っかかった無色貪のポイント
は「無彼岸波羅蜜」と言う方法で効果的に交わしてい
ます。

http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/6a183922349dffa4f68cc372dbf9df91

阿羅漢でなければこのような視点は持てないものです
から、このあたり、大乗は盲人による原典カスタマイ
ズでは無く、まともな阿羅漢による原典カスタマイズ
であると思える点です。


したがって、テーラと言う所は、現代の資本主義社会
と言いますか在家主流時代では、社会の主流である在
家には役に立たない化石保存としての価値があると
思ってもらえばそれで良いと思います。

現代は釈迦時代ほど宗教者も出家者も社会から相当の
立場として認知される環境にはありませんから、現代
の在家主流社会に原始仏典をそのままで当てはめてう
まく行くだろうと考える自身が既にナンセンスという
事に気が付かなければなりません。

ダイジ氏と言う人も、臨済録とか維摩経とか大乗関連
の文献を重要視していたようです。

http://dantes-daiji.jimdo.com/%E9%96%A2%E9%80%A3%E6%9B%B8%E7%B1%8D/

ちなみに、盲人である実践者自身による原典カスタマ
イズは使い物になりません。

ラピ。さんも、阿羅漢である私に出会えなければ、解
脱のための真のベクトルは手に入れらなかったはずで
す。

スピのどんなレクチャーに出ようと、簡単に悟れます
とか適当な所に費用を費やしたところで、私が伝承し
た真のベクトルは、そういう所では得られない種類の
ものだと思いますし、結局本当にそれを会得できた現
世では稀な人にしか、それは伝承することが出来な
い、これが事実です。

聞く姿勢が出来るまでに要した時間を考えれば、ラ
ピ。さん自身納得のいくところです。

なぜなら、それは絶対服従を要件とします。

私自身は、エゴを見抜ける特殊な眼があったので、普
通の人では無い部分で、何とかなったようなもので
す。

私は純粋に在家環境でのみ成就したと言える者ですか
ら、私自身が純粋な在家環境の解脱のマニュアルで
す。

禅道場で悟りたいなら阿羅漢の居る禅道場の出家を勧
めます。
  • 2015-09-24│21:41 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
TK師、ありがとございます。

>このような場所で細かな事は公開できない事は
>ラピ。さんも知っての通りです。

はい。


>激流段階は「命に代えても教えてもらいたい」
>このレベルの人にしか開示できません。

そうですね。
私が師匠からある質問をされたとき
迷わず
「わかりました。
全ての人のために
私の持つべき意識を教えてください。」と答えました。
(こう答えられるのに4か月弱かかったのですよね、、、。
悟る約10日前のことです。)


そして他ではこうメールしました。

『私には現世で彼岸に渡る方法が必要です。
生きている間に死ぬ必要があります。

私が漠然と思っていたのは
「もう、生まれ変わらない」ということです。

この生で終わりなのです。

誰かにそう言われたわけではないのですが
この考えのもとに私は生きています。
(この思いも、ひらめきの一つだと思います。)

だから、今しかやる時がない。

生まれ変わってやり直し、という選択肢がないのです。

そして前にもお伝えしましたが
私は実験台なのです。

この世界の真理を知るための実験台です。

大げさに言えば、世界の人のための実験台なのです。
(はい、大げさですがそう思って今まで来ました)

それが「自分を捨てて」という意味なのかなと思いました。』と。


ここでも、師匠がお見事だったのは
「激流段階では目的を持ってはならない、
悟りを目指してはならない」
というこれらが完璧でした。

しかし、これらが完璧に行われるためには
師匠との信頼関係、
さらに上下の厳しい
師弟関係が必要であり、
TK師の言われている通り
絶対服従が必要でした。

ここで詳しく書くことはできませんが
本当にお見事でした。

この導くことのない導きは
本物でなければ無理だと思います。


ちなみに、私の参考にさせていただいた教えのひとつは
誰でも知っている言葉で

「求めよ、さらば与えられん。
 尋ねよ、さらば見出さん。
 門を叩け、さらば開かれん。
これです。

あきらめなければ必ず道開く。

私が身をもって体験したものです。
  • 2015-09-24│22:50 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
TKさん、ラピ。さん、こんばんは。

つい先日、一旦「激流」という言葉など忘れて・・と書き込んだものですが、
ついつい、この掲示板を見に来てしまい、忘れるどころか更に興味が強くなり、
もし世のため人のために人間として向かうことができる最善の道であれば、
全力で向かってみたいと思い出しています。

今、私が描こうとしている理想というのは、実現させるまでに少なくとも
5~10年は掛かると思っています。やはり、今は激流という言葉など忘れて
自分の理想を鮮明に描き、その実現に向かうことだけを最優先で考えるべき
でしょうか。ただ、私の理想の実現には他者を多く巻き込んでいくことや
待つ時間、タイミングなども必要で、日々の時間に余力はまだ十分にあります。

と同時に、個人的な理想として「最強のマインドを手に入れる(育んでいく)」
といった感じのゴールを具体的には描けないようなものもあるのですが、
それこそTKさんラピ。さんが繰り返しここで書かれている激流というものに
向かい、それを起こし、乗り越えることなのでは・・とも思います。

この掲示板でTKさんラピ。さんと対話ができるのは滅多とない機会だと思い
ますので、何かこの私の迷いのようなものに対してのアドバイスなどありま
したら、よろしくお願い致します。
  • 2015-09-25│22:30 |
  • 諸行無常 URL│
  • [edit]
No title
諸行無常さん

激流は夢や希望を捨てる道ですから、あなたのように
激流を夢や希望の一環のようにして捉えるようなもの
ではありません。

人のために精一杯生きて、その中に「楽しさ」があり
ます。

私などは今振り返っても、あの理想時代のままで行け
たなら、それも良かったに違いないと思えます。

それ位に、理想時代は私にとってかけがえの無いもの
でした。

このように言えるくらいに、あなたはまだ自分の理想
を充分に生きて楽しんでいません。

なぜなら、理想の実現より、激流とか悟りとか、他の
ものの方があなたにとって価値のあるもののように見
えているからです。

当時の私は、そんなものより、自分の理想が一番素晴
らしいものだと思って価値観を置いてました。

あなたはまだまだ、現実逃避があるという事です。

>待つ時間、タイミングなども必要で、日々の時間に
>余力はまだ十分にあります。

もっと自分の理想というものに対して欲張りになりま
しょう。

時間に余裕があるのでしたら、他の内容もいれればい
いわけです。

生きている内は精一杯やりたいことやって、そういう
生き方が良い訳です。

私などは、寝る間も惜しんで、これくらいに精一杯理
想に楽しんでました。
  • 2015-09-26│00:41 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
諸行無常さん

理想を実現させることと最強のマインドを手に入れること。

もし、理想を実現させることを
諸行無常さんの目標とするなら
理想を実現していけば、喜びも増え
結果的にマインドの強化もされると思います。


最強のマインドを手に入れることを目標とするのなら。

マインド強化であれば
理想実現でできると思います。


しかし、それを極めたいのなら別です。

それを極めるためには
TK師の言われている通り
夢も希望も捨てて
ただただ精進しなければなりません。

精進し続けるなら
夢も希望も持つ暇もないはずなのですね。

マインドを極めることを目標とするなら
人としての願望について
思いめぐらせる時間は許されません。
すべてをマインド強化につぎ込みます。

在家ですのでもちろん仕事や日常のことは
きちんとします。

それ以外の自分の意志を
ただただマインド強化に費やします。

仕事中に湧き上がる思いさえも
捨てなければなりません。

極めるからにはそれくらい、
いやそれ以上しなければならないのです。

心配することも喜ぶことも
マインドの働きですから
それに費やすことはダメです。

心配する暇なく喜ぶ暇なく
思う暇なく
ただただ精進します。



しかし理想を実現させることを目標とするのなら
人としての喜びを追求する道ですから
それらにマインドを費やします。

大いに喜び
心配することがあったら
それを克服するために
マインドを大いに活用して
心配を乗り越えるのです。

これが人としての幸せだと思います。

そこには喜びがあると思います。

よって喜びもその都度得られますし
喜ぶことができる。
マインド強化もある程度されます。

しかしマインドを極めるなら
マインドを喜ぶことに使ってはいけないのです。


マインド強化と理想実現は同時にできます。

理想実現をやっていれば
結果的にマインドが強化されていくと思います。

コツはマインド強化を目標とするのではなく
理想実現を目標とすることです。

結果的にマインドが強化されます。

だから精一杯
理想実現、頑張ってください。

余った時間も理想実現のために
それに関する読書をするとか
別方向からも試してみるとか
いろいろ探せばすること、たくさんありますよ。



応援しています!

  • 2015-09-26│08:27 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
TKさん、ラピ。さん、ありがとうございます。

お二人のアドバイスを糧にして、今明確に描こうと
している理想を必ず10年以内に実現させます。
非常にスッキリしました。感謝です。
  • 2015-09-26│12:36 |
  • 諸行無常 URL│
  • [edit]
No title
>この掲示板でTKさんラピ。さんと対話ができるのは
>滅多とない機会だと思いますので、何かこの私の迷
>いのようなものに対してのアドバイスなどありまし
>たら、よろしくお願い致します。

諸行無常さんに出会えて良かったです。

諸行無常さんのように、ここで実際に彼岸に至った者
である私と対話を交わせば、それでも貴重な得るもの
が有ったと思います。

本や独学、未成就者による有料レクチュア等と実際に
至った者との生対話には大きく違いがあると思いま
す。

ほんの些細な点と思えるものでも、その点を修正しな
ければ停滞しそれより先へは進めません。

それを考えれば、あなたは適格に機を見て行動に移せ
る才能があると言えます。

行動力の無い人は何も掴めませんが、それでチャンス
をものに出来ずに、後になってから後悔する人が世の
中には多いと思います。

天に向かう生き方もできない人に悟りは無理ですが、
天に向かえる生き方が出来れば、多くの人はそれすら
もできませんから、私はそれでもかなりすごい事だと
思いますが、それは生きがいを感じる楽しめるもので
あり、決して小難しいものではありません。

題材は遊びの世界でも何でも有です。

例えば人間らしい「思いやり」のマインドとか、その
ようなマインドは、悟ると無くなります。

このような人間らしい「思いやり」とか「まごころ」
とか、悟ると経験できなくなる人間的なマインドを、
悟る前に充分に味わってみて下さい。

悟ってしまったら、もうその頃に戻れなくなります。

私に言わせると、悟ると腑抜けのようになると表現す
るとちょうどいいのかもしれません。

マインドで生きる生き方も、人間的な風情があって良
いものですよ。

私はその生き方に、素晴らしい価値を認めます。

「思いやり」「慈しみ」人間らしいマインドには価値
があるのです。
  • 2015-09-27│07:57 |
  • TK URL│
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No title
らぴ様はじめまして。

拝見させていただきとても胸打たれ、私がずっと探し求めている「本当のこと」にとても近いものを感じました。

私には難しいことは何もわかりません。ただ幼い頃からの説明のつかない経験と、人生を長くやってきて味わった沢山の愛する人の死や不幸がありました。それによって常に生きる意味を探りながらこれまで生きてきました。けれど生来の性格が明るかったためかいわゆる苦労を「不幸」や「苦しみ」ととらえることはあまりありませんでした。

しかし私にとっては最後の生きる望みであり、とどめであった主人との死別で私はタガが外れました。もはや幸福を求めていない自分を認識しました。自死することもできない業の深さを知った時、ただ「真実」のみを知りたい自分がいました。それ以来、さまざまな本を読み、神に祈りました。

ご多分に漏れず人に誘われるままにいわゆるスピ系のワークショップにも行きました。

ワークショップで見たものは「どうしてこの人達はこんなにも不幸なんだろう。何もかも持っているのに、これ以上何がほしいんだろう」ということでした。宇宙人や宇宙エネルギー、レムリアだのアンドロメダだのバシャールだのというむなしい言葉が飛び交う世界でした。精神世界とは思えないエゴの巣窟でした。

ただそのレッスンの中で、どうやら自分が他人の亡き人の霊を見たようだ、そしてそれを喜んでくれた人がいた、という事だけが唯一の収穫でした。そしてそれは多分あの場においての限定経験であろうという事もわかっていますし、職業霊媒になろうとも思っておりません。

そんな風にして日々が過ぎ、出会うさまざまな本を読みながら死別の苦しみをただ味わっていました。あるがままに。。。悲しみの湧き上がるままに。。。

するとある日、苦しみが極地に達した時、すべてのものが輝き、今までと全く違って見える経験をしました。自分がいかに幸せの中にいるかを感じました。それはあるいは「幸せ」ではないかもしれず、「安定感」のような事かも知れません。大きな存在からの深い愛を感じました。その時エックハルトトールの言う「心の中のスペース」があり、涙が流れました。

今は四苦八苦、試行錯誤で修業中です。高いお金を払ってスピリチュアルのクラスに通い続けるべきかも悩んでいます。お金にまだまだ執着があります。本当に何も知らない自分がいます。

毎日がエゴとの闘いですが、今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。

苦行に関するページに
>ず~と息を止めておくとか、ほとんど物を食べないとか死にそうになるものがありました。

とありました。こういうのが苦行なら何回もやりました(笑)死別の苦しみで人は自然にそうなります。

私は死別や苦しみを一つのチャンスととらえることがこれまでで精一杯行きついた先でした。

>大いに喜び
心配することがあったら
それを克服するために
マインドを大いに活用して
心配を乗り越えるのです。

「マインド」はむずかしいですね。

たとえばダスカロスのマインドとはいわゆる思考ではなく一種のエネルギーのようなもので、それを潜在意識的に使うのではなく自分の意志で使うことによって永遠の自分として生きることができると言います。

いわゆる普通の意味でのマインドは思考で、エゴに支配されることによって人が真に生きることを邪魔し、ささやきかけ、感情と結びついて苦しみを作り出します。しかし、「内なる本当の自分」(永遠の自分)がマインドをとらえ、マインドの策略に気づき、マインドを正しく使った時、エゴは遠ざかり苦しみも無くなる、ととらえていますが、どう思われますか?

これからもお邪魔させていただきたいと存じます。よろしくお願い申し上げます。
  • 2015-10-08│11:17 |
  • おとめ URL
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No title
※私は今までここでいろいろコメントのお返事をしてきました。

皆さんのお役に立てるよう
情報をお伝えしていますが
自分の考えが否定されると
腹が立つ方もいらっしゃいました。

それは仕方ないことかもしれませんが
ウソは言えません。

常にきちんとお返事しておりますので
よろしくお願いいたします。



おとめさんはじめまして。
ようこそいらっしゃいました。

いろいろ辛いことを乗り越えられてきたのですね。
そしてスピ系のワークショップに行かれたのですね。

そこで得られた情報は
おとめさんが生きていく中で有益な情報もあれば
そうでないものもあります。

おとめさんがこれからどう生きていきたいか
によっても必要な情報が違ってきます。


>毎日がエゴとの闘いですが、
>今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。

これはスピ系の教えからそうされているのですね?

実はその見つめているのもエゴです。
だからエゴは常に働いています。

人はエゴ(=マインド)があるから判断し、見つめることができます。

よってエゴは「絶対的に悪いもの」ではありません



>それを潜在意識的に使うのではなく
>自分の意志で使うことによって
>永遠の自分として生きることができると言います。

残念ながら違います。
私の状態ですと、そもそも「意志」がありません。

そして意志は言い換えるとマインドともいえます。

私にはマインドがないのです。


>しかし、「内なる本当の自分」(永遠の自分)がマインドをとらえ、

よって私の状態であれば
永遠の自分を「マインド」が捉えることはありません。

>マインドの策略に気づき、

この状態は常に思い起こしてはならない状況ですね。
(策略に気づき続けなければならない状況)
私はそこから解放されています。

そもそもマインドがないので
マインドの策略も起こらないし
気づく必要がありません。

>マインドを正しく使った時、

よってマインドを「正しく使う」
ということはあり得ません。

マインドを使うことがないので
(そもそもマインドがない)
正しいとか正しくないとかの判断が
必要ないし、
対象が消滅していますので
正しいとか正しくないとか判断するものがないです。


>エゴは遠ざかり苦しみも無くなる、ととらえていますが、どう思われますか?

マインドはエゴです。

よってマインドが消滅することにより
エゴも遠ざかるどころか
消滅します。

苦しみはマインドが作り出します。

よって私には苦しみが生まれません。

ちなみに喜びもマインドは作り出します。


>大いに喜び
>心配することがあったら
>それを克服するために
>マインドを大いに活用して
>心配を乗り越えるのです。

↑ この文ではマインドの使い方をお伝えしています。

道には2段階ありまして
1段階はマインドを使って生きる道
2段階はマインドを消滅させる道です。

2段階の道を歩ける人はほとんどいません。
まずは精一杯1段階を生きる必要があります。

なぜなら1段階できちんと成長したマインドを使ってのステップが
2段階だからです。

まずはマインドを鍛えて(1段階)
そのマインドを活かし
マインドに挑むのが2段階です。


>「マインド」はむずかしいですね。

はい、考えると難しいと思います。

そしてその考えているのもマインドです。

マインドを使わない様にはできません。
常に人はマインドを使って生きています。

普通に生きるのにマインドを使うことは必要です。

しかし、最後の段階はマインドを使うのではなく
マインドを消滅させる道を歩きます。

それらがごっちゃになると
永遠にそのループから抜けることができません。

順序良くやっていくのが道です。

まずはマインドを鍛えて
十分鍛えられたマインドを使って最後の道を歩きます。

よってマインドの鍛錬は必須です。


どうぞ、これからもよろしくお願いいたします!
  • 2015-10-08│12:55 |
  • ラピ。 URL│
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No title
こんばんは。

ラピさん、さっそくありがとうございました。
何度も申し訳ありません。

今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。

>これはスピ系の教えからそうされているのですね? 実はその見つめているのもエゴです。
だからエゴは常に働いています。

ちょっと説明不足でした。ごめんなさい。ラピさんが「スピ系」をどうとらえていらっしゃるかわかりませんが、私はいわゆる「ファッションのようなスピリチュアリズム」ととらえています。(パワースポットめぐりや引き寄せのようなワクワクのような)比較的ラクな人生で、ほとんど深刻な問題は無く、無いものねだりというか、まあ生きてるのがつまらないんでしょうね、そういう人を対象にした教えという意味からするとこれはスピ系ワークで得たものではありません。

私事になりますが、これまでの長い人生で経験した数々の試練の中で徐々に目覚めていたものが、私にとっては究極の出来事であった主人との死別というとどめを刺された時あえてそこに捨て身で飛び込むことで、あるがままに受け止める方法を自分なりに見出したということです

それが私にとっての「今を見つめる」という事です。それはマインド=思考なく見つめる、つまり「味わう・ただ体験する」と言えば良いでしょうか。
そこに思考によるジャッジは無いのでエゴも生まれにくくなるということです。
大げさな「今・ここ」ではなくただの単純なじっくり経験でしょうか。

その究極の瞬間が主人の臨終の時でした。そこにはエゴは無かったと思います。
ただ子供のようにポカンとして真っ白な状態、良い、悪いの判断以前、感情も何もなくただ「事実」だけがあって通常の私はそこにはいませんでした。すぐにエゴはもどりましたが。

「それを潜在意識的に使うのではなく自分の意志で使うことによって永遠の自分として生きることができると言います。」

>残念ながら違います。

ごめんなさい、「 」内は私の考えではなくダスカロスの教えです。私はまだそこを消化しきれないでいます。

けれども人はどんなに学ぼうと、すぐれた師であろうと自分が絶対正しく、人は間違っているという限りそこには強いエゴがあり、したがってその教えは偽物であると思います。かつてのキリスト教がそうでした。

その意味では「私のいう事は鵜呑みにしてはいけない」といったダスカロスが今の私の心の師となっています。

>エゴは「絶対的に悪いもの」ではありません

私もそう思います。実生活には時々必要ですが、苦しみの元でもありますね。エゴがある限りその人は不幸です。

>ちなみに喜びもマインドは作り出します。

それは。。。失礼ながら短期的な喜びだと思います。

私はまだマインドを消滅させるには至っていませんが、マインドを使っている自分をもう一人の自分が見ているところはあります。
私にとってはそれがマインド消滅への一歩だと思っています。
それがラピさんのおっしゃるマインドの鍛錬になるかどうかはわかりませんが。。。

>マインドを大いに活用して
>心配を乗り越えるのです

ここだけちょっと質問宜しいでしょうか。私の経験ではマインドで心配を乗り越えられたことはまだ一度も
ありません。マインドを使っている限り最終的には苦しみへと向かってしまいます。マインドを使えば使うほど未来に関しての不安や過去への後悔に苦しみます。

おっしゃるようにマインドでちょっとした楽しみを味わうことは可能ですが。

「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗り越える」とは具体的にはどういう方法か差し支えなければお教えくだされば幸いです。お時間のある時でけっこうです。とっても知りたいです。

いきなり飛び込んできての質問攻めの狼藉、どうかお許しください。本当に我ながら失礼と思います。

まだまだ何も知らない、という事が今の私には生きる喜びにもなっています。すべてがわかってしまったらどんなにつまらないことでしょう。

神はあまりにつまらないからすべてを作ったとも言われています。

今は私もラピさんと同様苦しみはありません。

とるに足らない現実でささやかな悩み、お金のこととか(笑)はありますが、それもある意味生きてる楽しみのようなものかも知れません。そこに「執着」はないからです。

モノも何もいりません。

「幸せ」ではありませんが、平穏です。


  • 2015-10-08│20:22 |
  • おとめ URL
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No title
おとめさん

>そういう人を対象にした教えという意味からすると
>これはスピ系ワークで得たものではありません。

そのおとめさんが書かれたものが
おとめさんのスピ系の定義ですか?

では、おとめさんがしているしている
スピ系ワークとはそういうものですか?

>今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。

ではその方法はどこから得たものでしょうか。



>マインド=思考なく見つめる、つまり「味わう・ただ体験する」と言えば良いでしょうか。

おとめさんはマインドは思考だと思われているのですね。

私の言っているマインドとおとめさんの言っているマインドは
違うようです。

もちろん思考もマインドですが、、。

味わうことも体験することもマインドがなければできません。

マインドなく=思考なく、と言えるのなら
おとめさんの定義によるマインド消滅は
おとめさんはできているのではないでしょうか。

それでいいのではないですか?

わたしの言っているマインドについては
おとめさんは消滅していると言えませんが。



>ごめんなさい、「 」内は私の考えではなくダスカロスの教えです。

はい。わかっています。
おとめさんを否定しているのではなく
ダスカロスの言葉について書いています。
(ちなみにダスカロスを知りません)

>私はまだそこを消化しきれないでいます。

そしておとめさんはこのダスカロスの言葉に
違和感はないのですよね?



>それは。。。失礼ながら短期的な喜びだと思います。

そうですよ。
なぜ失礼ながらなのですか?

私にはもちろん、その短期的な喜びはありませんよ。


>私はまだマインドを消滅させるには至っていませんが、
>マインドを使っている自分をもう一人の自分が見ているところはあります。

自己観察、という感じでしょうか。

私もしていましたよ。

その見ている私もマインドです。

マインドを使ってマインドを見ている状態です。

よってそれでは消滅させることはできません。

ちなみにおとめさんとしては
マインドを使っている自分とは
思考している自分とも言い換えられるのでよかったでしょうか。

おとめさんは「思考」が消滅することを目的とされているのですか?



>私の経験ではマインドで心配を乗り越えられたことはまだ一度も
>ありません。

では、なにで乗り越えられましたか?
いろいろ考えて(=思考)乗り越えたのではないですか?



>今は私もラピさんと同様苦しみはありません。

私と同じようであるのなら
そのままでいいのではないでしょうか。

>「幸せ」ではありませんが、平穏です。

それでおとめさんがいいのなら
いいのではないでしょうか。


>けれども人はどんなに学ぼうと、
>すぐれた師であろうと自分が絶対正しく、
>人は間違っているという限りそこには強いエゴがあり、
>したがってその教えは偽物であると思います。

よっておとめさんは私にもエゴがある、と言いたいのですね。

こうやっていろいろお伝えすること自体
そう思われても仕方ないと思いますが、、。

もちろん私の言葉を信じる必要はないと思います。

私は自分の道を歩く時
最終的には師に教えを請いましたが
ほとんど自分を信じて進みました。

誰にも質問することなく
自分を信じて進みました。

なぜならかつてエゴがあった時は
自分を否定されるのが嫌だったからです。


もし、おとめさんが
「これは違ってこれは正しい」という教えを
エゴで偽物だというのなら
何をお聞きになりたいのでしょうか。

正しいことを知りたい
ということではないのですね?

例えばですが。
おとめさんの言っていることが正しい
と言う人もエゴが強いですよね。
なぜなら言い方を変えれば
おとめさんは正しい=おとめさんの意見と違うものは間違っている、
という思いがあるからです。

しかし、おとめさんは
自分の言っていることに賛同してくれる人に対しては
自分と違う意見の人を否定する意見には
賛成すると思いますがいかがでしょうか。

そこにエゴはありませんか?


さて一体、どういう教えが本物なのでしょうか。
  • 2015-10-08│21:50 |
  • ラピ。 URL│
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No title
>けれども人はどんなに学ぼうと、
>すぐれた師であろうと自分が絶対正しく、
>人は間違っているという限りそこには強いエゴがあり、
>したがってその教えは偽物であると思います。
>よっておとめさんは私にもエゴがある、と言いたいのですね。

とんでもない!
私はダスカロスの事を言ったのです。決してラピさんの事を言ったのではありません。言い方が悪くて申し訳ありませんでした。

>おとめさんは正しい=おとめさんの意見と違うものは間違っている、という思いがあるからです

そのような思いは毛一筋ほどもありません。それは不幸の元だという事はすでに知っております。
コメントよく読んでいただければわかりますが、「私は何も知りません」

>では、おとめさんがしているしている スピ系ワークとはそういうものですか?

全く違うものです。

色々誤解させて申し訳ありません。コメントの難しさをつくづく知りました。

私はただ「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗り越える」というのがどういう事か知りたかっただけです。

>いろいろ考えて(=思考)乗り越えたのではないですか?

思考で乗り越えたことはありません。

ありがとうございました。。。とても勉強になりました。心より感謝申し上げます。
  • 2015-10-08│22:45 |
  • おとめ URL
  • [edit]
No title
>とんでもない!
>私はダスカロスの事を言ったのです。
>決してラピさんの事を言ったのではありません。
>言い方が悪くて申し訳ありませんでした。

そうなのですね。

こちらこそ失礼いたしました。

ちなみになぜここでダスカロスの言葉を
引用したのでしょうね。


>そのような思いは毛一筋ほどもありません。
>それは不幸の元だという事はすでに知っております。
>コメントよく読んでいただければわかりますが、「私は何も知りません」


何も知らないのならなぜ
「今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。」
をしているのですか?

それが正しいことだとしてされているのではないですか?

何も知らないのならそうする理由はなんでしょうか。



>>では、おとめさんがしているしている スピ系ワークとはそういうものですか?

>全く違うものです。

では、そのおとめさんがしているものを
おとめさんがスピ系と言うのは違っていますね?



>私はただ「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗り越える」というのがどういう事か知りたかっただけです。

>>いろいろ考えて(=思考)乗り越えたのではないですか?

>思考で乗り越えたことはありません。


そうでしょうか。

>私は死別や苦しみを一つのチャンスととらえることが
>これまでで精一杯行きついた先でした。

おとめさんはこう言われていますよね。

自分が精一杯考えた結果
死別や苦しみを一つのチャンスと捉えるようにしたのではないですか?


「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗り越える」
とは
例えば心配事があった時
その心配事をどうすればいいか対策を考え
それを実行することです。

心配して、心配して
自分の心配と向き合った結果
心配しても仕方ないことだとわかり
心配を手放すことも
「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗り越える」のひとつです。

これらの行為はマインドによって行われています。

自分が感じ、考えた結果
「それがいい」という結果を
行動に移す、ということです。

みんな普通そうしていると思います。



私はおとめさんを苦しめようとしてるつもりはありませんが
結果的に苦しめていますでしょうか。

実はその苦しんでいるのがエゴなのですが、
いかがでしょうか。
  • 2015-10-08│23:12 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
ラピさん、貴重なご意見ありがとうございます。これでお終いにするつもりでしたが、また質問をいただきましたので以下にお答えいたします。

どうやらラピさんは私のコメントに「反応」してしまったようです。これによってだいぶラピさんにはまずい状況にありますが、それはあとで書きます。

けれどもとても真剣に書いて下さったので私も真剣に書きますね。

私はただ静かに自分の認識した事だけを書いています。そこをご理解下さい。

>では、そのおとめさんがしているものを
おとめさんがスピ系と言うのは違っていますね?

初めにすでに書きました。

「人に誘われるままにいわゆるスピ系のワークショップにも行きました。」

誘われて行っただけで今は行っていません。たまにエゴを楽しんで「行こうかな」と悩むことはあります。楽しい悩みですが。それはたとえばお酒は体に悪いと思っていても、ちょっと飲んじゃおうかな、と思うようなものです。

>自分が精一杯考えた結果

私は「考えて」はいません。そう書いてもいません。
精いっぱい「行きついた」だけです。そこに思考はありません。そこでやっとわかりました。

>「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗>り越える」とは
>例えば心配事があった時
>その心配事をどうすればいいか対策を考え
>それを実行することです。

↑これこそ不幸の元だと私は考えます。

>その心配事をどうすればいいか対策を考え
>それを実行することです。

どうすればいいか対策を考えるのは「思考」です。
思考を使うと、おっしゃるように

>心配して、心配して
>自分の心配と向き合った

ことになり、エゴの餌食になって苦しみます。

>心配を手放すことも

手放すもなにも思考をはじめから使わなければ心配は生まれません。

>自分が感じ、考えた結果
>「それがいい」という結果を
>行動に移す、ということです。
>みんな普通そうしていると思います。

だからみんな苦しんでいます。
「それがいい」と判断するのも思考であり、こうして現実を良いか悪いか、ネガティブか、損か得か、好きか嫌いか「判断」することで苦しみが生まれます。

思考や感情で「感じ、考えた結果」みんなスピにはまったり、「特別な存在」になることに憧れたり、引き寄せや占いにはまったりします。ラピさんもひと通りおやりになったようですね。それはすべて「あるがまま」に対抗することであり、エゴです。それはわかっていらっしゃったようです。

私は判断の前に「あるがまま」を認めています。ただの認識です。それが「今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。」と書いたことです。今を見つめる=今の状況、感情、しょうもない思考やエゴをただ見つめ、認識するという事です。無理に受け入れようとするのでもありません。

>私はおとめさんを苦しめようとしてるつもりはありませんが結果的に苦しめていますでしょうか

すでに言ったように全く私には苦しみはありません。発生もしません。大丈夫ですよ。
ラピさんのご意見をただ認識し、理解しました。

エゴはまだありますがラピさんによって私が苦しむことはありません。

ラピさんのご意見を読むのはとても楽しいです。何故なら私はまだ本当の事を「何も知らない」からです。知らないという状態はとても幸せな状態です。多分一生知らないでしょう。

ただ自分の「認識したことだけ」は持っています。それが「本当の事」とか「私は知っている」とか言う勇気もないし、それほど賢者ではありません。

何故ラピさんは私を苦しめていると思うのでしょうか?私にラピさんの意見への「反発」があるとお思いですか?
いいえ、そこにはすでに書いた「認識」があるだけで、感情はありません。
従って「苦しみ」もないのです。

人の意見に対して「反発」があるとそこにはエゴがあります。だから私は反発や批判の前にただ認識します。それだけです。

>結果的に苦しめていますでしょうか
>実はその苦しんでいるのがエゴなのですが、いかがでしょうか

どうして苦しんでいる、と決めつけられたのでしょうか。私にラピさんへの反発があると考えているのだとすれば、ラピさんのエゴがそう考えていることになります。ラピさんにエゴが無いならば私に反発があるという考えにはそもそも至らないはずですが。

何故ならエゴはエゴを探すからです。

不本意ながら、たった今とうとうラピさんのエゴを見つけてしまいました。
エゴはエゴを見つけると反応します。そこから対立や戦争が起こります。

ちょっと残念賞ですね。やっと悟った方を見つけたと思ったのに。

そうすると以前のお言葉:

>例えばですが。
おとめさんの言っていることが正しい
と言う人もエゴが強いですよね。
なぜなら言い方を変えれば
おとめさんは正しい=おとめさんの意見と違うものは間違っている、
という思いがあるからです。

しかし、おとめさんは
自分の言っていることに賛同してくれる人に対しては
自分と違う意見の人を否定する意見には
賛成すると思いますがいかがでしょうか。

そこにエゴはありませんか?

「おとめ」を「ラピさん」にも置き換えられることになります。

ラピさん、どうやらあなたはまだ悟ってはいらっしゃらないようです。。。もしあなたの「至る」が「悟る」を意味するのならば。

ところで、ラピさんと私には根本的な違いがあるのを発見しました。さきほどの「思考」に対する考え方の違いもそうですが。

ラピさんは「激流」に飛び込んで「悟り」を得たとお書きになっておられます。
なるほど、そうか、と思います。大変貴重な体験をされたようです。

ですが私にとっては「激流」であれ、スピであれ、「苦行」であれ、〇〇の行動をすれば悟るということはあり得ません。

スピ系に集まる人は皆何かを「達成」しようとやっきになっています。そこには〇〇すれば、ワクワクをやれば、という強烈な思考がありエゴがあります。エゴから生まれたものはエゴにしかなりません。「激流」も然りではないでしょうか。

>ちなみに、スピリチュアルをしている方は実はエゴが強いです。

当然です。エゴの勧める行動だから。

従って私には「激流」に飛び込んだからという「行動」で「悟った」というのはどうしても信じられないのです。

「悟り」とは良いエゴも悪いエゴも無い状態の事を言います。それは元々あるがままの内なる光を認識することです。永遠の自分の発見なのです。

以下に私の考えを述べさせていただいて宜しいでしょうか。顔が見えないので誤解が生じませんように。

「激流」というのがどういうものかラピさんは具体的にお書きになっていらっしゃいませんので、TKさんのお書きになったものを読ませていただきました。それに対する私の認識への意見が以下↓です。解釈が違っていたら心から謝ります。

自我を消そうと無理やり人や何かに奉仕したり、世間と隔絶しても、そこには「抑圧」が残ります。
抑圧は猛毒です。それはよくある日本のスポーツ教育などでの「しごき」とか「根性磨き」のような匂いがします。何か「ど根性もの」を読んでいる感じです。

たとえば何故野球のしごきで生徒が自殺するのでしょうか。そこにはひたすらの「忍耐」「苦痛」「優越感」や「達成感」「他との差別意識」などがあります。日本にはこのエネルギーがとても強く、いじめが後を絶ちません。
また、奉仕などもそこに「苦痛」があるときいくら人の為に何かやってもそれはすべてエゴです。

「激流」であれ、スピであれ、「苦行」であれ、〇〇すれば悟るということはあり得るでしょうか。

私には「激流」に飛び込んだから「悟った」というのはどうしても信じられないのです。

もし「激流」のようなものがあるとすればそれは私にとってこの世、この人生、日々の暮らし、仕事です。あちこちに「激流」それはあります。
それをすべて「あるがままに」認めていくことが、激流に飛び込んでいくことです。

その点でほんの少しだけTKさんと共通の箇所はありましたが、決定的に違うところがありました。私の考えでは激流は「特別な人だけのものではない」ということです。

ブッダのタタータです。

私にとっては激流は「この選ばれた私だけが飛び込むんだ~」と一大決心するのではなく、皆がすでに飛び込んでいるのです。飛び込んで流れに逆らってアップアップしている人が多いのです。

私はいつの間にか飛び込んでいて水の流れに身を任せたという感じです。
そこには激流への「抵抗」はありません。したがって「耐え忍び」だとか「苦痛」はありません。

すると沢山の愛と平和を見ることができます。言う事をきかない子供が天使になります。
嫌な人が大好きになります。人に何を言われても、平常心でいられます。

「修行」や「苦行」のようなものではなく一生のあいだ地道に行われることだと私は思います。
ミヒャエル・エンデが描いた「ペッポ爺さん」の人生です。

何か「特別な事」を行い、特別意識で一定期間を過ごし、その結果覚醒(悟りでも「至る」でも)を得ることは私にはあり得ません。

何故生まれてきたかお考えになった事はおありでしょう?また考えて見て下さい。
なぜ主婦をしているのか、なぜこの子供を産んだのか、なぜこの仕事をしているのか。。。

ラピさんの最初の頃からの記事を見ました。時折お子さんの事やお仕事のことがあり、とても懸命に生きておられましたね。立派だと思いました。けれどもいつも「〇〇になりたい」という焦燥感のようなものがあって苦しまれましたね。

私も若い頃はずっとそうでした。

現実をひたすら地味にありのままに認めたり、特に「受け入れる」ことはけっこう難しいものです。そこに病や死、喪失があるときにはことにそうです。
だからこそ人生は最適な修行場であり苦行場なのかも知れません。

けれどもそれを「あるがままに」認めることを続けるとそこには覚醒者だの、〇〇になる!という必要性も
自我もそもそも発生しません。

大切な人やモノを亡くされたことはありますか?子供でも愛する配偶者でもペットでも恋人でも花でも金魚でもいいです。もしあればその時の状態に戻って下さい。あなたの「激流」のような人工的なものでなく、本物の激流です。

あなたには手足がありませんか?あなたは喋れませんか?目が見えませんか?歩けませんか?若いのに寝たきりですか?身内を殺されましたか?それが真の激流です。

ベッポ爺さんになって下さい。

ラピさん、あなたは決して特別な存在(覚醒者・悟り人)ではありません。

厳しい事を言うようですが、覚醒した人はそれを「公言」しません。ましてブログに「至った」とは書きません。公言した瞬間それは「エゴ」になるからです。

悟った人はひっそりと暮らしています。もし人前に現れるとすればそれは周りの人が自然にその人を押し出すからです。

キリストは自分を槍で突いた人間の為に神に祈りました。「彼らをお許しください。彼らは自分が何をやっているか知らないのです」

マザーテレサは怪我人から湧くウジ虫を手て取りながらニコニコして言いました。他の看護師にはそれがどうしてもできませんでした。「他の看護師を許して下さいね。あの人たちはまだまだ愛が足りないのです。」

それが真に命をかけた「激流」からの「悟り」です。そこに簡単に到達する人はもちろんいません。ましてやラピさんにできるでしょうか。

まだまだ学びの楽しみはお若いあなたには一杯残っていると思います。

以上すべて私のバカなコメントに「反応」してしまったラピさんのエゴに反応してしまった私のエゴが書いたことです。(笑)

これはすべてエゴのした事であり、私たちの本質がしたことではありません。

このエゴにもう反応なさらないほうがいいと思います。それによってますますあなたはドツボにはまります。

私はエゴで書いているとわかっていますが、ラピさんは「悟った」と公言してしまった手前それができません。だからどうしても自分の考え=思考とご自分を同一視してしまいます。それはご自分そのものを否定することにつながります。エゴの餌食です。

人間はエゴに満ちていてなかなかそれを消すことはできませんが、エゴをその人だと思ってはいけないと思います。エゴをその人だと思うと憎しみが生まれます。

本質は常に私たちの中にあります。それは光と愛に満ちています。。。

長々と失礼申し上げました。
  • 2015-10-09│19:21 |
  • おとめ URL
  • [edit]
No title
おとめさんどうもありがとう

おとめさんが自由に書いてくださったおかげで
私もストレートに言えます。



>どうやらラピさんは私のコメントに「反応」してしまったようです。

してませんよ(笑)


>これによってだいぶラピさんにはまずい状況にありますが、それはあとで書きます。


そうなんですね~。


>けれどもとても真剣に書いて下さったので私も真剣に書きますね。

どうぞ、真剣に書いてください。


>私はただ静かに自分の認識した事だけを書いています。そこをご理解下さい。


はい。

そして私の言葉もそのように受け取ってくださいね。
よかった。



>私は「考えて」はいません。そう書いてもいません。
>精いっぱい「行きついた」だけです。
>そこに思考はありません。そこでやっとわかりました。

さっぱり自分のマインドの動きに
気づかれていませんね。



>>「マインドを大いに活用して心配や過去の心配を乗>り越える」とは
>>例えば心配事があった時
>>その心配事をどうすればいいか対策を考え
>>それを実行することです。

>↑これこそ不幸の元だと私は考えます。


では、世の中の多くの人は
不幸なのでしょうか。

おとめさんにはそう見えるのでしょうか。



>>心配して、心配して
>>自分の心配と向き合った

>ことになり、エゴの餌食になって苦しみます。

そうなんですか。


>>心配を手放すことも

>手放すもなにも思考をはじめから使わなければ心配は生まれません。

なるほど。

では、おとめさんは一切
思考を使っていないのですね。




>>自分が感じ、考えた結果
>>「それがいい」という結果を
>>行動に移す、ということです。
>>みんな普通そうしていると思います。

>だからみんな苦しんでいます。


みんな苦しんでいるのですか?


>「それがいい」と判断するのも思考であり、
>こうして現実を良いか悪いか、ネガティブか、損か得か、
>好きか嫌いか「判断」することで苦しみが生まれます。

では、おとめさんにそういうものは一切ないのですね。



>思考や感情で「感じ、考えた結果」みんなスピにはまったり、
>「特別な存在」になることに憧れたり、引き寄せや占いにはまったりします。
>ラピさんもひと通りおやりになったようですね。


ちなみにスピ系のワークは一切行ったことはありませんよ。

なぜ一通りやったと言えるのですか。



>それはすべて「あるがまま」に対抗することであり、エゴです。
>それはわかっていらっしゃったようです。

意味が解りません。



>私は判断の前に「あるがまま」を認めています。
>ただの認識です。
>それが「今を見つめることによってエゴの出番を少なくするようにはしています。」と書いたことです。
>今を見つめる=今の状況、感情、しょうもない思考やエゴをただ見つめ、認識するという事です
>無理に受け入れようとするのでもありません。


そうですか。

それで幸せであるのなら
ここで主張する意味はなんでしょうか。

こんなとこに来ないで
幸せな現実世界を過ごせばいいのではないですか。




>>私はおとめさんを苦しめようとしてるつもりはありませんが結果的に苦しめていますでしょうか

>すでに言ったように全く私には苦しみはありません。発生もしません。大丈夫ですよ。
>ラピさんのご意見をただ認識し、理解しました。

>エゴはまだありますがラピさんによって私が苦しむことはありません。


よかった。

ではストレートに書かせていただきます。




>ラピさんのご意見を読むのはとても楽しいです。
>何故なら私はまだ本当の事を「何も知らない」からです。
>知らないという状態はとても幸せな状態です。多分一生知らないでしょう。


そうですか。よかったですね。



>ただ自分の「認識したことだけ」は持っています。
>それが「本当の事」とか「私は知っている」とか言う勇気もないし、それほど賢者ではありません。


認識すること自体
マインドの動きなのですがおわかりですか?




>何故ラピさんは私を苦しめていると思うのでしょうか?
>私にラピさんの意見への「反発」があるとお思いですか?

おとめさんのエゴが見えているからです。



>いいえ、そこにはすでに書いた「認識」があるだけで、感情はありません。
>従って「苦しみ」もないのです。


そうですか。

それはよかったです。


>人の意見に対して「反発」があるとそこにはエゴがあります。
>だから私は反発や批判の前にただ認識します。それだけです。

いろんなことを知っているのですね。
(何も知らないのではなかったですか?)



>>結果的に苦しめていますでしょうか
>>実はその苦しんでいるのがエゴなのですが、いかがでしょうか

>どうして苦しんでいる、と決めつけられたのでしょうか。

決めつけていませんよ。
だからおとめさんに「いかがでしょうか」と聞いています。

しかし、おとめさんのエゴは私から丸見えなんですけどね。


>私にラピさんへの反発があると考えているのだとすれば、
>ラピさんのエゴがそう考えていることになります。

考えていませんよ。


>ラピさんにエゴが無いならば私に反発があるという考えにはそもそも至らないはずですが。

なぜ、そうなるのですか。

エゴがなくても見えるんですよ。
見るんじゃなくて見えるんです。

見えちゃうんですよ。


>何故ならエゴはエゴを探すからです。

それは本当ですか?

おとめさんはそうなんですね。



>不本意ながら、たった今とうとうラピさんのエゴを見つけてしまいました。
>エゴはエゴを見つけると反応します。そこから対立や戦争が起こります。


いいえ、私は対立しません。
というか私に対立するものがありません。

おとめさんは私のエゴとおとめさんのエゴが対立するかも
と思っているかもですが
おとめさんはおとめさんのエゴと対立しているのであって
私とではありません。

私にエゴはないからです。



>ちょっと残念賞ですね。やっと悟った方を見つけたと思ったのに。


どうぞ、ご自由に思ってください。



>そうすると以前のお言葉:

>>例えばですが。
>>おとめさんの言っていることが正しい
>>と言う人もエゴが強いですよね。
>>なぜなら言い方を変えれば
>>おとめさんは正しい=おとめさんの意見と違うものは間違っている、
>>という思いがあるからです。

>>しかし、おとめさんは
>>自分の言っていることに賛同してくれる人に対しては
>>自分と違う意見の人を否定する意見には
>>賛成すると思いますがいかがでしょうか。

>そこにエゴはありませんか?


ないです。



>「おとめ」を「ラピさん」にも置き換えられることになります。

>ラピさん、どうやらあなたはまだ悟ってはいらっしゃらないようです。。。もしあなたの「至る」が「悟る」を意味するのならば。


おとめさんが悟ってないのに
私が悟っているか悟っていないのかなぜわかるのでしょうか。


>ところで、ラピさんと私には根本的な違いがあるのを発見しました。さきほどの「思考」に対する考え方の違いもそうですが。


ええ、違いがあります。

私にはマインドはないが
おとめさんにはマインドがばっちりあります。



>ラピさんは「激流」に飛び込んで「悟り」を得たとお書きになっておられます。
>なるほど、そうか、と思います。大変貴重な体験をされたようです。


おとめさんは一体、何を知っているのでしょうか。



>ですが私にとっては「激流」であれ、スピであれ、「苦行」であれ、〇〇の行動をすれば悟るということはあり得ません。

おとめさんは悟っていないのに
そういうことまで知っているのですね。

(違いますけど)



>スピ系に集まる人は皆何かを「達成」しようとやっきになっています。
>そこには〇〇すれば、ワクワクをやれば、という強烈な思考がありエゴがあります。
>エゴから生まれたものはエゴにしかなりません。
>「激流」も然りではないでしょうか。

違います。

激流はそういうものではありません。





>>ちなみに、スピリチュアルをしている方は実はエゴが強いです。

>当然です。エゴの勧める行動だから。

>従って私には「激流」に飛び込んだからという「行動」で「悟った」というのはどうしても信じられないのです。


ええ、激流に飛び込んだという行動をしたから悟ったのではありません。




>「悟り」とは良いエゴも悪いエゴも無い状態の事を言います。

その通りです。


>それは元々あるがままの内なる光を認識することです。永遠の自分の発見なのです。


違います。
内なる光すらありません。

永遠の自分って何ですか。

永遠、って言ったとたん
永遠ではなくなることをご存知でしょうか。

そもそもその「永遠の自分」って受け売りですよね?

誰の受け売りですか?

それともおとめさんが永遠の自分を発見したのですか。

その発見したものは永遠の自分ではありませんよ、残念ながら。

発見したとしてもそれは長く続かなかったでしょ?



>自我を消そうと無理やり人や何かに奉仕したり、世間と隔絶しても、そこには「抑圧」が残ります。
>抑圧は猛毒です。それはよくある日本のスポーツ教育などでの「しごき」とか「根性磨き」のような匂いがします。何か「ど根性もの」を読んでいる感じです。


ええ、ど根性です。


>たとえば何故野球のしごきで生徒が自殺するのでしょうか。

なぜですか?

>そこにはひたすらの「忍耐」「苦痛」「優越感」や「達成感」「他との差別意識」などがあります。
>日本にはこのエネルギーがとても強く、いじめが後を絶ちません。

なんだか、いろんなことを知っているのですね。
本当ですか?
受け売りですか?


>また、奉仕などもそこに「苦痛」があるときいくら人の為に何かやってもそれはすべてエゴです。


そうなんですか!

苦痛があったら奉仕もエゴですか。

???



>「激流」であれ、スピであれ、「苦行」であれ、〇〇すれば悟るということはあり得るでしょうか。


どうでしょうね。


>私には「激流」に飛び込んだから「悟った」というのはどうしても信じられないのです。

別に信じなくても構いません。
ちなみに飛び込んだから悟った、というのではありません。



>もし「激流」のようなものがあるとすればそれは私にとってこの世、この人生、日々の暮らし、仕事です。あちこちに「激流」それはあります。
>それをすべて「あるがままに」認めていくことが、激流に飛び込んでいくことです。


こうやって激流を多くの人が勘違いされています。

激流とはそういうものではありません。
あるがままに認めた瞬間流されてしまいますよ。

あるがままに認める時間すらもないほど激しいものです。

ほんのわずかなスキがあってもダメなんです。




>その点でほんの少しだけTKさんと共通の箇所はありましたが、決定的に違うところがありました。
>私の考えでは激流は「特別な人だけのものではない」ということです。

「特別な人?」


>ブッダのタタータです。

>私にとっては激流は「この選ばれた私だけが飛び込むんだ~」と一大決心するのではなく、

そんなこと一言も書いていません。
おとめさんがエゴ的に勝手に解釈しています。


>皆がすでに飛び込んでいるのです。
>飛び込んで流れに逆らってアップアップしている人が多いのです。

本当の激流からしたら
ぜんぜん違うのですが、
それをおとめさんは激流と言うのですか。

逆らわなければアップアップしないというものは
激流ではありません。

激流はすべてを飲み込むほどの激しいものです。




>私はいつの間にか飛び込んでいて水の流れに身を任せたという感じです。


激流という言葉をきちんと見てください。

激流です。

水の流れに身を任せられるのは
穏やかな流れの時だけでしょう。

激流ならあっという間に流されてしまいますよ。
溺れてしまいますよ。


>そこには激流への「抵抗」はありません。
>したがって「耐え忍び」だとか「苦痛」はありません。

それはそうでしょうね。
それは激流ではありませんから。


>すると沢山の愛と平和を見ることができます。言う事をきかない子供が天使になります。
>嫌な人が大好きになります。人に何を言われても、平常心でいられます。


よかったですね。じゃあそのままずっとそうでいてくださいな。
ここで聞くことは何もないんじゃないですか?


>「修行」や「苦行」のようなものではなく一生のあいだ地道に行われることだと私は思います。
>ミヒャエル・エンデが描いた「ペッポ爺さん」の人生です。

そうですか。
「ペッポ爺さん」の人生を知りませんが。
(説明は不要です)



>何か「特別な事」を行い、特別意識で一定期間を過ごし、その結果覚醒(悟りでも「至る」でも)を得ることは私にはあり得ません。

もちろんです。

私はどの瞬間も気を抜くことなく
精進しましたよ。



>何故生まれてきたかお考えになった事はおありでしょう?また考えて見て下さい。
>なぜ主婦をしているのか、なぜこの子供を産んだのか、なぜこの仕事をしているのか。。。

はぁ。。




>ラピさんの最初の頃からの記事を見ました。
>時折お子さんの事やお仕事のことがあり、とても懸命に生きておられましたね。
>立派だと思いました。けれどもいつも「〇〇になりたい」という焦燥感のようなものがあって苦しまれましたね。


まぁ、悟っていませんでしたからね。


>私も若い頃はずっとそうでした。

>現実をひたすら地味にありのままに認めたり、特に「受け入れる」ことはけっこう難しいものです。そこに病や死、喪失があるときにはことにそうです。
>だからこそ人生は最適な修行場であり苦行場なのかも知れません。


確かに人生は修行と考えてもいいかもですね。



>けれどもそれを「あるがままに」認めることを続けるとそこには覚醒者だの、〇〇になる!という必要性も
>自我もそもそも発生しません。

残念ながら自我が発生することはありません。

おとめさんは自分の自我に気づいていないのか
気づいていないふりをしているのか。

常におとめさんの行動には自我が付随いしているのですよ。

発生するとかしないとかでなく。



>大切な人やモノを亡くされたことはありますか?子供でも愛する配偶者でもペットでも恋人でも花でも金魚でもいいです。
>もしあればその時の状態に戻って下さい。あなたの「激流」のような人工的なものでなく、本物の激流です。


人工的とはなんでしょうか。

意図的に作ったとでも?

激流はそんな甘いものではありませんよ。



>あなたには手足がありませんか?あなたは喋れませんか?目が見えませんか?歩けませんか?若いのに寝たきりですか?身内を殺されましたか?それが真の激流です。

そうなんですか。

それ以外は激流ではないのですか?



>ベッポ爺さんになって下さい。

いえいえ、それを知らないし。

ぜひ、おとめさんがそうなってください。
(よくわかりませんけど)


>ラピさん、あなたは決して特別な存在(覚醒者・悟り人)ではありません。

ええ、特別な存在なんて
どこにも書いていませんが。

それ、おとめさんのエゴが勝手にそう捉えたのでしょ。


>厳しい事を言うようですが、覚醒した人はそれを「公言」しません。
>ましてブログに「至った」とは書きません。公言した瞬間それは「エゴ」になるからです。


そうなんですか。



>悟った人はひっそりと暮らしています。もし人前に現れるとすればそれは周りの人が自然にその人を押し出すからです。


なぜそうであることを知っているのですか。
(違いますけど。私は日常、普通に暮らしています)

それは何かの受け売りでしょう。


>もし人前に現れるとすればそれは周りの人が自然にその人を押し出すからです。

なんだか、悟った人が特別、みたいな言い方ですね。
すごい妄想ではないですか?



>以上すべて私のバカなコメントに「反応」してしまったラピさんのエゴに反応してしまった私のエゴが書いたことです。(笑)

>これはすべてエゴのした事であり、私たちの本質がしたことではありません。


なんだか、すごい言い訳ですね。



>このエゴにもう反応なさらないほうがいいと思います。
>それによってますますあなたはドツボにはまります。


全然かまいません。はまりませんから。

私はエゴでコメントを書いているのではありませんから。

どんな言葉も何も発生させないので
自由に言葉を使えます。


よかったらおとめさん対話しましょう。

私との対話で苦しみは生まれないのでしょう?
(ほんとに大丈夫かなぁ)

安心しましたよ。


>ラピさんのご意見を読むのはとても楽しいです。

この言葉に間違いは、ありませんね?
無理しないでくださいね。

嫌なら嫌だと言えばいい。




>私はエゴで書いているとわかっていますが、ラピさんは「悟った」と公言してしまった手前それができません。

(笑)

エゴ無いですから。
書いてませんから。(笑)



>人間はエゴに満ちていてなかなかそれを消すことはできませんが、エゴをその人だと思ってはいけないと思います。エゴをその人だと思うと憎しみが生まれます。


そうなんですか。

すばらしいですね。

ではおとめさんはどんな人も許せる、ということでしょうか。



>本質は常に私たちの中にあります。それは光と愛に満ちています。。。


悟ればそのようなことは言えません。
それは誰の言葉でしょうか。


>長々と失礼申し上げました。


全く問題ありません!(笑)
  • 2015-10-09│20:51 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
おとめさん

あなたも酔っ払いの典型的な特徴の方です。

>自我を消そうと無理やり人や何かに奉仕したり、世
>間と隔絶しても、そこには「抑圧」が残ります。
>抑圧は猛毒です。それはよくある日本のスポーツ教
>育などでの「しごき」とか「根性磨き」のような匂
>いがします。何か「ど根性もの」を読んでいる感じ
>です。

この文の中に、既にこうあるべきだと言う、あなの
「理想」が出ています。

あなたはこのように「理想」を主張する段階の人なの
ですから、悟りと言う考えはこの際一切捨てて下さ
い。

あなたは今のままでは、一生死ぬまでスピ(内面)系
の酔っ払い人生です。

悟りとは、あなたのように「理想」を主張する道では
無く、真逆のベクトル「理想」を捨てる道なのですか
ら。

あなたが今のままで、「悟り」だとか、内なる光と
か、これをスピ(内面)系というのですが、これらを
一切捨てない限りあなたは我々が酔っ払いと言う状態
から抜けられません、死ぬまで永遠にです。

段階に応じて真逆になるベクトル同士のごちゃまぜが
あなたなのです。

スピ(内面)に汚染されているという事です。

あなたはスピ(内面)系を一切捨てて、「理想」に生
きることです。

この二つは真逆のベクトルなのですから、この二つを
ごちゃ混ぜたら死ぬまで永遠の酔っ払いにしかなれません。

この二つとは「スピ(内面)系」と「理想」の二つの
事です。

なお、スピ(内面)系とは、その名の通り、スピリチュアルつ
まり、内面云々のことを指します。

「理想」とは内面系に属するベクトルではありません。

酔っ払いの典型です。
  • 2015-10-09│20:52 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
お二人からのヒステリックな反応。。。思いがけず面白いです。思った通りドツボにはまりますよ。

特にラピさんから「受け売り」という言葉が一杯。

やはり「悟って」おられません。それがよくわかりました。残念です。

悟った人は人を決して非難しません。

ちょっと何か言われてラピさんは安っぽく反応してしまいました。
あなたはあなたのエゴで今私と敵対してしまいました。私はしていませんが。

そもそもブログで「至った」と書くなんてちゃんちゃらおかしい、と私のほうが初めにわかるべきでした。

過去にも誰かとこのように敵対し、未来もそうなることでしょう。

>TK師による本物の教えから得たヒントを活かし私の最終形の激流へ飛び込むこととなります。

そこでTK様ですが、↓これだけありました(笑)

>常識で考えればバカでもちょんでもわかる事です。
>どこかの間抜けが
>これバカな人でも常識的にわかりますよね
>バカな人たち、だから阿羅漢にもならない盲人である無資格者が
>それは何もわからない者のバカな解釈というものです。
>何でも詰め込むゴミ箱以下の人間が出来上がるだけです。
>これを無視する経典を振り回す仏教とか名乗る人たちは本当にバカですね。
>釈迦の真の教えを汚すゴミ箱のような人間が

↑これたった一つのコメントにあったTKさんの罵詈雑言です。

恐れながら、そして誠に失礼ながらTK様、以上によりあなたの教えには「愛」が無いことを「認識」しました(笑)私は他者をこれほど口汚くののしる人を「師」とは呼ばないでしょう。

けれどもあなたはご自分を「師」と認めてはばからずにいらっしゃいますのでちょっと意地悪で馬鹿なおばちゃんのエゴが頭をもたげました。まことに失礼ですが、あなたではなく、あなたのエゴにちょっと言わせていただきます。:

自己主張、自説のみを正しいとし、人の考えを(たとえどんな考えであれ)「馬」や「鹿」呼ばわりするのも強いエゴで基本中の基本から外れます。乗馬の先生が馬から落ちてますよ。そこから宗教宗派の対立も生まれてきます。戦争が後を絶たないのもそのためです。麻原と同じカルトの考えです。

他者のエゴに反応するのは常に自分のエゴです。
たとえ知識が山のようにあろうとも、ね。

「あなたは兄弟の目の中のゴミが見えるのに何故自分の目にあるトゲに気づかないのか」とキリストは言いました。

>例えば理不尽な事をされた時に、
>その理不尽に対して 対策を練って、攻略法を模索する、これがまっとうな人のやる事ですが、

私は全くそう思いません。対策を練るのはエゴです。
「人に理不尽なことをされた」と思うのもエゴです。
不幸の大元です。まっとうな人のやることではありません。これを実行したら多くの何も知らない人が不幸になる、と私は思います。

だからこそ今私は書かせていただきました。

前にも書きましたが、あなたには手足がありませんか?あなたは喋れませんか?目が見えませんか?歩けませんか?若いのに寝たきりですか?身内を殺されましたか?それが「理不尽」であり真の激流です。

あるがままの現実を認め、それをただ生きることがお釈迦様の道でありキリストの道です。そもそも↓

>激流法にトライできる精神的な資格を持つ人は。。。

あなたは人間に「資格」を与える人なのですね。

>否定せずに受け入れるなどとやったら、
バカ丸出しですよ。

バカが何故いけないのでしょうか。

あなたはどうやら相当馬や鹿がお好きなようですね(笑)
あなたの「激流」の結果がこれでしょうか。お釈迦様が泣いておられます。

キリストは自分を槍で突いた人間の為に神に祈りました。「彼らをお許しください。彼らは自分が何をやっているか知らないのです」

それが真に命をかけた「激流」です。そこに簡単に到達する人はもちろんいません。

TK様あなたはラピさんより悟っていらっしゃらないようで残念です。
これからラピさんを師と仰いでください。
しかし決して一人の師にのめりこまないでください。そうした時それはカルトになります。

TK様、私はあなたの「エゴ」について言っているだけで、本当のあなたを非難しているのでは
ありません。わかりますか?あなたは多くの人に影響を与えています。エゴではなく、本当の
あなたで人々にどうか愛を与えてください。

ちなみに私はスピ系ではありません。あなたのおっしゃるスピ系って何でしょうか?

何故ラピさんは「激流」について何も書かないのですか?それは取るにたらないへぼ修行だからです。そうでないならどんな修行だったのか他の人のためにちゃんと説明するべきです。

何をやりましたか?

>この文の中に、既にこうあるべきだと言う、あなたの「理想」が出ています。

理想ではなく事実です。あなたの勧めていることは
「しごき」です。それを書きました。

酔っているのはあなたです。




  • 2015-10-09│21:19 |
  • おとめ URL
  • [edit]
No title
おとめさん、反応ありがとございます。


>お二人からのヒステリックな反応。。。

これをヒステリックと捉えているおとめさんに
ヒステリックはあります。

こちらまったく、そうではありませんが。



>思いがけず面白いです。思った通りドツボにはまりますよ。

はまりませんよ。

そう言うおとめさんがはまっているのでは?



>特にラピさんから「受け売り」という言葉が一杯。

なぜなら、おとめさんの言われていること
おとめさんが「体験」したものですか?

何かのスピ系の本からの引用でしょ?

私、スピ系するまで
「愛」とか「光」とか言いませんでしたよ。

なにそれ?です。

それってかなり現実離れした
理想論。


スピ系していない人に
「光」とか言ってみたらどうでしょうか。

「はぁ?」って言われますよ。

>本質は常に私たちの中にあります。それは光と愛に満ちています。。。

スピ系していない人に言ってみてください。怖がられますよ。
なにそれ?宗教?って。



>やはり「悟って」おられません。それがよくわかりました。残念です。

どうぞご自由に。


>悟った人は人を決して非難しません。


そうですか?
ほんとうですか?

釈迦は非難しませんでしたか?

まぁ、非難することなく
非難できるのですけどね。


>ちょっと何か言われてラピさんは安っぽく反応してしまいました。

してないと言っているのに(笑)


>あなたはあなたのエゴで今私と敵対してしまいました。私はしていませんが。


それはよかったです。
(ほんとかなぁ)


>そもそもブログで「至った」と書くなんてちゃんちゃらおかしい、と私のほうが初めにわかるべきでした。


どうぞ、ご自由に。


>過去にも誰かとこのように敵対し、未来もそうなることでしょう。


呪いの予言ですか?

あらら。

それ自分に言っているようなもんですよ。



>何故ラピさんは「激流」について何も書かないのですか?
>それは取るにたらないへぼ修行だからです。

スゴイ言いようですね。
それがおとめさんの本性?

ちなみに激流については何度か書いてますけど。


>そうでないならどんな修行だったのか他の人のためにちゃんと説明するべきです。


なぜ説明すべきなのでしょうか。


>何をやりましたか?

聞く耳もたないおとめさんに言ってもしょうがない。

適当な好奇心で聞くような内容ではありませんよ。

  • 2015-10-09│21:36 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
おとめさん

ヒステリックに見えましたかね。(笑)

我々は以前にも話したように、エゴの演出をしていま
す。

これを、専門的には「唯作心」と言いますが、あなた
にはこの理論は分かりません。

つまり、我々が達成しているものは原田雪渓氏や井上
貫道氏、バーナーデッドロバーツその他、これらの人
たちと同類のものだからです。

ちなみに、井上貫道氏の動画みましたが、エゴ出しま
くり動画ですよ。

なぜか知ってますか、わたしやラピさんは分かります
が。

それでは、ミラレパの師のマルパの行為をどう思われ
ますか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%AC%E3%83%91

師のマルパは弟子のミラレパに対して、公衆の面前で
罵倒、殴打、蹴り上げる等の過酷な仕打ちの数々した
わけです。

私やラピさんはこの理論分かりますが、あなたには一
生分かりません。

我々は自らの結果に基づいて話をしています。

あなたは何か結果を出せたという事なのですね。

あなたの出せた結果を信じたい人は我々を疑えばいい
のではないですか。

ただそれだけの事です。

もともと、あなたと我々の説明しているものが違うも
のだとすれば、議論などする必要もありません。
  • 2015-10-09│21:41 |
  • TK URL│
  • [edit]
ラピさんは悟ってはいません
2対1だからな~(笑)
まあ、ちょっと言い返したくはなる雰囲気にお二人が持ってきましたね。私にもエゴはあると言ったでしょ。

>これをヒステリックと捉えているおとめさんに
>ヒステリックはあります。こちらまったく、そうで>はありませんが。

あなたがいくら平静を装っても読者にはわかっちゃうでしょうね。

*ともかくラピさん、あなたは悟ってません。それだけは言えます。*

>なぜなら、おとめさんの言われていることおとめさんが「体験」したものですか?

もちろんですとも。

>何かのスピ系の本からの引用でしょ?

これは世間的に言うと立派な「侮辱」にあたりますが、別にかまいません。
でもどうしてそう思うのですか?それならどこから引用したのか言えるんでしょうね。
ちゃんとどこからの引用だか言ってくださいね。

>>何をやりましたか?
>聞く耳もたないおとめさんに言ってもしょうがない。

いいえ私に言ってもしょうがないでしょうが、あなたはブログで「激流により」「至った」と言って自分を
「特別視」しているのですから読者に説明するべきではないでしょうか。期待している読者の前にニンジンいつまでもぶら下げないで早く言ったらどうでしょう。それとも「なあんだ。そんな経験だったのか」と言われたくないのでしょうか。

>スゴイ言いようですね。 それがおとめさんの本性?

はい、私のエゴに反応しているラピさんの本性(エゴ)でもあります(笑)エゴはエゴに反応します。

さて、TK先生、罵詈雑言がだいぶ減りましたね。
ちょっと恥ずかしくなったかな。
代わりに今度は知識ですか。

>これを、専門的には「唯作心」と言いますが、あなた にはこの理論は分かりません。

>つまり、我々が達成しているものは原田雪渓氏や井上 貫道氏、バーナーデッドロバーツその他、これらの人 たちと同類のものだからです。

>ちなみに、井上貫道氏の動画みましたが、エゴ出しまくり動画ですよ。

知識をひけらかすのは自分が危うくなった証拠です。

あなたがダスカロスやシュタイナーの教えを知らないように私もそれを知りません。これでおあいこですね。

>私やラピさんはこの理論分かりますが、あなたには一 生分かりません。

あなたにも同じように上記が一生わかりません。

それにあなた方の人への愛の無さを見ているとわかろうともちっとも思いません。ご心配なく。

>あなたはこのように「理想」を主張する段階の人なの ですから、悟りと言う考えはこの際一切捨てて下さい。

お言葉ですが、私は「悟り」など全く追及しておりません。今のままで平安です。
繰り返します。私は「悟り」など求めておりません!

ところであなたがスピ、スピと言っている意味を教えて下さい。うちの猫は「すぴ~すぴ~」と寝息をたてますがそれですか?(笑)
スピリチュアリズムですか?それともスピリチュアルですか?まさかTKさん、この区別がつかないんじゃないでしょうね。

意味もわからず人をスピ、スピと言ってるのでしょうか。それもあり得そうですね。あなたなら。



  • 2015-10-09│22:15 |
  • おとめ URL
  • [edit]
No title
「ラピさんは悟ってはいません」って
タイトルにしましたか。(笑)


侮辱罪、そうですか。

じゃあ
>それは取るにたらないへぼ修行だからです。

これも侮辱罪ですかね。


ちなみにおとめさん、
私とTK師の言っていることが
おとめさんの中でごっちゃになっていますよ。

どうぞ冷静になってくださいね。


>いいえ私に言ってもしょうがないでしょうが、
>あなたはブログで「激流により」「至った」と言って
>自分を「特別視」しているのですから読者に説明するべきではないでしょうか。

特別視していませんし、
私、特別じゃありませんから。

それに私の言葉を必要としている人なんて
いないのではないでしょうか。

私、特別じゃありませんから。


>それとも「なあんだ。そんな経験だったのか」
>と言われたくないのでしょうか。

おとめさん曰く
(私がそういったのではありませんよ)
侮辱罪ですね。

  • 2015-10-09│22:21 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
おとめさん

>さて、TK先生、罵詈雑言がだいぶ減りました
>ね。
>ちょっと恥ずかしくなったかな。

あなたのような泥酔状態の人に、ドエゴの熱演しても
意味ないです。

それだけですよ。

ほとんど、ネット上の誰が見てもあたなたにようにだ
けはなりたくないと言う、あなたは見本のようになっ
てますから、それで十分ではありませんか。
  • 2015-10-09│22:31 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
>どうぞ冷静になってくださいね。
こちらこそお願いしたいです~。

覚醒したにしては嫌に熱くなってますね♪

なにしろ二人がかりですから。負けそうです。

さっそくバーナデット・ロバーツ図書館に予約しました(笑)とても面白そうです。

これ「覚醒本」なのですね。そのまんまですね。
他の2冊も読んでみます。
ご紹介ありがとうございます!

ちなみに私はロバーツはロバーツでもジェーン・ロバーツの「セスは語る」が好きですが、お読みになりましたか?

TK先生早くあなたのスピの定義聞かせて下さい。

私スピ、スピと言われたのはじめてなもんで。
お願いします。

ラピさん、>それに私の言葉を必要としている人なんていないのではないでしょうか。

それじゃなんでブログ書いているのでしょうね。


  • 2015-10-09│22:46 |
  • おとめ URL
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No title
おとめさん

>それじゃなんでブログ書いているのでしょうね。

書くのに理由がいるのでしょうか??

まぁ、「私」は書いていませんけどね。(笑)
  • 2015-10-09│22:54 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
バーナデット・ロバーツ
TKさんのお勧め、バーナデット・ロバーツの言葉に遭遇しました。私が言ってることと合致します。

>旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしかできません。心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。
そのために心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく、観念が一瞬間から別の瞬間に持ち運ばれることも、
他の観念と照合されることもないのです。要するに、考えるべきことはいつも目の前にあり、何を考えるか何を為すかに迷って停滞することがないのです。  

>心はその瞬間に集中していて、過去や未来を顧慮することがないのです。

これが私が書いた「思考」や「判断」を入れずその瞬間を経験する、ということです。

>心はいつも一点の曇りなく晴れていて、既製の観念が何一つ入る余地もなく

私が毎日実践していることです。そこに「恐れ」や「不安」はありません。したがってエゴも入りません。

日々一瞬一瞬やってることに集中します。そこには思考による未来や過去からの不安はありません。

おかげさまでひょんなことからありがたいお導きがありました。感謝します。

取り急ぎ。。。

  • 2015-10-09│23:32 |
  • おとめ URL
  • [edit]
No title
おとめさん

そのバーナデット・ロバーツの言葉は
旅が終わった状態を表したものです。

よって実践内容ではありません。

バーナデット・ロバーツが
どの様な旅をし、旅を終えたのか
どの様な実践をしたのかが
おとめさんに必要な情報です。

バーナデット・ロバーツが
実践を終了した状態=旅が終わった後を
真似しても至ることはできません。


  • 2015-10-10│00:20 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
なぜ酔っ払いと言うのは、このうよな精神世界絡みを
喜んでかじるのだろうか。

バーナーデッド・ロバーツの表現見ても理解できるは
ずがないのに、勝手に分かった気になって自分と同じ
だとか、酔っ払いの戯言のような事を言い出す始末。

「内省の機能が止まったとき、肉体の活力は無くなる
わけではないのですが、以前のように自分のものと感
ずることができません。」
(バーナーデッド・ロバーツ 自己喪失の体験より)

内省(内観)の機能が止まれば、内なる光とか何とか
いうバカげた、酔っ払いのたわごともありませんから
全く違いますがね。

このような人を気色悪い人と言うのです。

だれも、このような酔っ払いにだけはなりたくないと
言う良い見本になってくれてありがとう。
  • 2015-10-10│00:48 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
>旅が終わった後では、現在の瞬間に生きることしか
>できません。心はその瞬間に集中していて、過去や
>未来を顧慮することがないのです。

ちなみに、これはかなりの苦肉の表現ですから、これ
を見てその言葉通りにとったら相当の酔っ払いになり
ます。

なぜなら正確には、現在の瞬間に生きる事などできま
せんし、その瞬間に集中する事も出ません、これが真
実です。

このように、悟っていない人はこのような人の本は、
妄想に溺れるだけですから読まない事です。

ところが酔っ払いほどこのような本を読みたがる、こ
のような酔っ払いを相手にして損するのは自分自身で
す。
  • 2015-10-10│01:04 |
  • TK URL│
  • [edit]
ロバーツとスピなラピさん
一晩中ロバーツについて調べていました。その結果私の体験に驚くほど近いものを感じました。これを縁というのでしょうか。

私が探し求めていた人を見つけたかもしれません。
まだ資料の段階ですが、深く読むことできっと何かを得られることでしょう。この件に関しては大変感謝いたします。

私はずっと瞑想を続けていますが、ロバーツもそうしていたようですね。幼い頃の経験も似ています。

夫の死後まもなく私が経験したことではこれでした:

>だが、何も考えず、何も知ろうとせず、活力を欠い>たまま、ただ生きるための、何の満足も伴わない活>動によって、その体験の強烈に受け身だけでいる危>険を避けることが出来ることが分かった。
↑ロボットのような状態でした。

>見ることだけが私の生活となり、全くそれに依存し>ていたものが、あるとき、それすらも、もう無く
>なってしまった。どこを見ても、恐ろしい虚無が侵>入し、生命を奪ってゆくかのようだった。
>生命が急に抜け落ちて、その後には死と崩壊しかな>いのだった。

>活力とは通常は自己保存のためのものであるが、
>私はそれなしに生きる方法に慣れてゆくしかなかっ>た。

>そのうちに、頭に火がついたように熱くなり、
>目の後ろが強く押されて目がつぶれてしまうそうに>感じた。

>目の中にいっぱい星が見え、足が冷えてはじめ、
>それは次第に頭を除く全身に及んだ。
↑私は目が飛び出てしまう、という感覚でした。

しかしその後瞑想によって私が得た経験とロバーツのそれと沢山の共通点があることがわかりました。

たとえば:

>ある時、ふと内部に意識をむけたところ、
>私の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽ
>だった。
>それを知った瞬間には、静かな喜びがあふれて来
>た。
>そして身体が非常に軽くなったように感じたので、
>足が地についているかを確かめたほどだった。

>すべての存在がひとつに動的に結ばれ、永遠で聖な>るものに見えた。私はいつまでもそこに留まりたい>と思った

↑今もこれは感じます。

>その時、その花が、まるで全宇宙からの歓迎である>かのように微笑んだのだった。

↑私の場合部屋全体がそう見えました。

>微笑が向けられた未知の対象は、その主体と同一で>あり、それがまた微笑自体でもある。

↑この「未知の対象」は私には光なのです。
あなたがたが薄気味悪いと言った(笑)微笑というか
深い愛も感じます。ラピさんには見えないんですか?
そっちのほうが不思議です。

今の私の状態はまさにこれです↓

>そして、以前に好きだった音楽は雑音となり、
>自然音と沈黙が私の楽音となった。
>当然生活は、単純化され、美がなければ何かを特に>珍重することもないので、実際的な用途のないもの>を所有する意味もなくなる。

>何かが特に美しいということがなければ、すべてが>美しく、すでにその美の一部となって所有されてい>るのであるから、何も所有する必要がないのであ
>る。
↑本当にすべてが美しいです。TKさんは「酔っ払い」と言ってますが、まさにそうですよ。あなたは酔えないんですね。かわいそうに。

>普通の思考は、心が外と内、過去と未来を往来し、
>個人的な感情や意向に振り回されて疲労しているだ>けであるのに比べればこの思考は必要最低限に局限>されたものであり、各瞬間の目前の明白な事柄に対>して、頭に閃くようになされる。

>今の瞬間だけで満たされているので、過去や未来を>思う余地はない。基準がなく、選択の必要がなけれ>ば、今の瞬間の外に踏み出ることはあり得ない。

これが私がいう瞬間に生きることですよ。TKさん。

あなたの考えは完全にロバーツと一致しません。

>正確には、現在の瞬間に生きる事などできま
>せんし、その瞬間に集中する事も出ません(あなたの言葉)

できます。現にやっております。それしかできなく
なりつつさえあります。そこに時間はありません。

以下のことはダスカロスの教えと共通しています:

>また恐怖こそ、人間の営利の源で、
>それを中核として自己が築かれているので、
>恐怖と自己とは同じものだと言ってもよい。

ここでいう自己とはエゴと一緒の自己です。

しかしラピさん、あなたの「激流」なるものがただの「しごき」だとあなたは尻尾を出しました。それは完全にエゴであり偽善です。

何故ならあなたは「苦しかった」から。心から喜んでやった行為じゃないから。その根底には自分の何かの達成のため、という下心があり、決して人のためじゃないからです。

エゴから出た行為はすべてエゴにまみれた結果しか
生みません。

たとえばの話ですが、あなたが町中の公衆トイレを掃除して回ったとしても、老人ホームで100人のおむつを替えたとしてもあなたが「苦しんで」「苦行で」やったなら、それらはすべて「偽善」です。したがってあなたは全く目覚めていません。悟ってもいません。

だからたかがブログのコメントなんかでちょっと何か
言われただけで激しく反応します。情緒不安定に陥っていますね。あなたの返信にはあきらかに矛盾とあせりが見えます。

ラピさん、私はあなたを傷つけているつもりはありません。あなたのエゴに、肥大したエゴに言っているので、本当のあなたに言ってはいません。

あなたは「悟った=至った」と言っているが、「本当の自分」やロバーツの言う「未知の対象」に会っていませんね。

あなたは実生活で私のような死別などの激烈な経験がなかったため幸せでぬるま湯の暮らしに「激流」をもちこむことでその代わりとし悟りを求めたのです。
あなたは書いています:

>本当に幸せな人が「悟りたい」って思うでしょうか
>よって悟りたいという思いがあれば苦しみもある

あなたは不幸だから「悟りたい」と思う、と書いておられるが、本当に不幸な人は「悟りたい」なんて思いません。そんな優雅な「ゆとり」はありません。

私は悟りたいなんてこれっぽっちも思わなかったし今も思っていません。ただ楽になりたかっただけです。そして瞑想をやり、上記のような経験をしました。

けれども私は自分をあなたのように「悟った=至った」などとおこがましいことは一切言いたくありません。

安易なスピリチュアルにはまる人は一杯いますが、そういう人は実生活で何の苦労もしていない人が多いです。そのため生きることに意味を見いだせず苦しんでいます。

その典型がラピさんあなたですよ。仕事もあり、お子さんもいてあなたは非常にめぐまれた暮らしをしていながら、生きる意味を見いだせなかった、そしてスピにはまった人です。スピにはまらなければうつ病になっていたかもしれません。

そして悟ったと公言してしまったためこれからその「役割」を演じて生きなければならないでしょう。また新たな苦痛の始まりです。そしてそれは間違った師に間違った「修行」の結果です。

悟ることは苦行でも修行でもありません。まさに今この瞬間を余分な思考を使わず、最低限の良い思考のみ使い集中して生きることなのです。そしてそれはロバーツのように瞑想だけでも手に入れられます。

私はそれをやっています。その結果幸福と平穏を手にいれました。そしてこの段階に至って初めて人の為に愛をもって奉仕ができるようになります。
あなたは順序がまるで逆ではないでしょうか。

罵詈雑言の「師」さんのコメントは見る気もしません。あまりにレベルが低すぎます。

>このような人を気色悪い人と言うのです。
そのままその言葉あなたにプレゼントします。

なんだか痩せて、眼鏡をかけた薄気味悪い男性が昨日から浮かぶんですが、間違っていたら幸いです(笑)

TK様もっと本を偏らず色々お読みになってくださいませ。それから馬と鹿は無しでお願いします。

私は憎しみからこのコメントを書いているのではありません。目を覚ましてほしくて書いています。本当の激流を生きて下さいね。それではもうこちらには一切お邪魔致しません。

仲間を見つけた!と思いましたが違いました。

ロバーツのことだけは本当にありがとうございました。バトルとても楽しかったです♪




  • 2015-10-10│09:53 |
  • おとめ URL
  • [edit]
No title
おとめさん
いろいろ想像して書きましたね。
(ハズレがたくさんありすぎて書きようがない)
はい、そうですか。
よかったですね。(笑)


>深い愛も感じます。ラピさんには見えないんですか?
>そっちのほうが不思議です。

そうですね。
私は愛も感じないし見えません。

なぜなら私は愛そのものだからです。

愛との分離がないので
愛を感じることができないし
(愛と私が違うものだから
愛を対象として(分離しているものとして)
愛を感じることができるのです)

私の周りに愛があるのではなく
私が愛そのものなので
感じる必要もありません。


それがありのままというものです。

私は大変幸せそのものなんですよ。
激流を乗り越えた結果ね。

だから今は幸せを感じる必要がありません。
おとめさん♪


実はおとめさんの段階のさらに先があります。

おとめさんは愛そのものではなくて
愛を受け取る人の段階です。

私は実践することなく
愛そのものの状態です。

おとめさんが愛に包まれているのなら
ありのままなのなら
なぜ実践されているのですか。

実践、必要ないでしょう。

実践しているのは
愛はあったとしても
その愛との分離があるからです。

愛を求めている状態です。
愛が必要な状態です。
愛を得ている状態です。

おとめさんは愛の源ではありません。
愛が見えているとしても。

おとめさんが愛そのものとなりたいのなら
その先があることを知ることです。

愛を感じるだけで満足なら
それでもいいですけど。

感じる必要なく
愛そのものとなる道があるのですよ。

おとめさんが感じている愛がなくなったらどうしますか?

愛そのものになれば
愛がなくなることはありません。

今おとめさんが得ている愛は無限でしょうか。

それを証明することはできません。

しかし、愛そのものであれば
愛の源であれば
そんな心配、全く無用です。

バトル、こちらはしていませんけど(笑)


おとめさん
愛そのものになるチャンスを
逃されませんように。

そこにエゴはもちろんありません。

おとめさんはエゴをコントロールしていますが
(実はできていませんが)
そんな必要もない境地があります。
  • 2015-10-10│10:11 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
>そして悟ったと公言してしまったため
>これからその「役割」を演じて生きなければならないでしょう。
>また新たな苦痛の始まりです。

残念ながら違います。

この言葉はおとめさん視点の言葉です。

おとめさんがそう公言したら
おとめさんにとって苦痛が始まる
と思っているからですね。

私はそうではありません。

私は苦の源が消滅しております。
  • 2015-10-10│10:49 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
酔っ払いの典型的な人は、「自分も悟ったつもり」と
いうやつで良い気分になると言う、これが我々の言う
酔っ払い現象というものなのです。

この類の人は相手にしない方が良いですよ。

毒をばら撒きますから。

悟ってもいないのに、マインドで悟ったと、この人た
ちの特徴はマインドが悟るのですよ。(笑)

あまりにも変すぎで、マインドが悟るのだと。

それは悟りでは無く、単なるマインドなのですが。

これが酔っ払い現象の正体なのです。
  • 2015-10-10│17:36 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
>>正確には、現在の瞬間に生きる事などできま
>>せんし、その瞬間に集中する事も出ません(あな
>>たの言葉)

>できます。現にやっております。それしかできな
>くなりつつさえあります。そこに時間はありませ
>ん。


酔っ払いに酒の肴を与えてしまった気分です。

バーナーデッド・ロバーツの表現はかなり無理な表現
を使っていますので、この通りに酔っ払いの格好の酒
の肴になってしまうのです。

真実は、酔っ払い者が捉える表現とは異なります。

もしも表現どうりなら、バーナーデッド・ロバーツは
悟っている人では無くなるのですが、この人は悟った
人が無理な表現を使っているだけなのです。

なぜこのようになるのかと言うと、キリスト教の方
は、マザーテレサにしろ、悟りというものの教えが不
足している事によります。

悟りと言う現象の捉え方に対する不慣れから、酔っ払
いの格好の酒の肴にされるような言葉をばら撒く事に
なってしまうのです。

もともと今この瞬間を体現する事が「悟り」ですが、
「悟り(今この瞬間)」とは生死を超える事であり、
「生きる」を強調する事は、既に「悟り(今この瞬
間)」から外れています。

「生きる」は既に悟りでも今でも瞬間でもありませ
ん、これは単なるマインドなのです。

http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/soroku/genzou01.htm

原田雪渓氏も言ってますね。

http://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E6%88%91%E3%81%AE%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E2%80%95The%E3%83%BB%E7%A6%85-%E3%81%9D%E3%81%AE3-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E9%9B%AA%E6%B8%93/dp/493890201X

生きてもいないし、死んでもいない状態を今と言う、
その通りなのです。

バーナーデッド・ロバーツは一生懸命にこの現象を表
現しようと調べ捲ったそうです。

キリスト教の方には、悟りの表現が難しいのです。

ついには、ここにもいるような典型的な酔っ払いの酒
の肴の本が出来上がるわけですね。

「在る」と言う表現ならまだわかりますが、「生き
る」、このようなベクトルを持つ言葉は悟り(今この
瞬間)にはありません。

このようなベクトルが一切入り込めないものが、悟り
であり、今この瞬間なのです。

みなさん、酔っ払いの習性分かったでしょうか。

漫才見てるみたいに滑稽です。
  • 2015-10-10│18:54 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
私からも追記を。

まず、私は酔いたくありません。
「酔う」とは調べたのですが


1飲んだ酒のアルコール分が体中にまわり、正常な判断や行動がとれなくなったりする。
2 乗り物に揺られたり、人込みの熱気に当てられたりして気分が悪くなる。
3 そのことに心を奪われてうっとりする。また、自制心を失う。

まぁ、ここで言う酔うとは
3番ですね。

この方は自分が酔っていることを認めています。

「悟り」を口にする人が
「酔う」ことをいいこととするのは
わかりません。

酔っ払いは平常心の人からしたら
ちょっと関わりたくないですよね。

酔っ払いは酔っ払い同士が
きっと楽しいのでしょう。


また言っていることがちぐはぐで
この人にとって悟りに激流が必要なのか
必要でないのか。

本当の激流を生きて下さいねと言ってみたり
苦行は必要ないと言ってみたり。

さて
どっちなんでしょうね。



>まさに今この瞬間を余分な思考を使わず、
>最低限の良い思考のみ使い集中して生きることなのです。

余分な思考=マインド
使わず=マインドの動き
最低限の良い思考のみ=マインド
集中して生きる=マインドの動き

なんですけど
これがこの方の悟りなんですかね。

悟りを求めていないと言いながら
悟りについて力説しているのは
なぜなんでしょうね。

ちなみにこの場では
愛を持って奉仕する姿勢はどこへやら。

どんな人にも愛を持って奉仕するのでしょ。
それとも人を選ぶのかしら。

それこそ「選ばれた人」
という思考があるからかしら。
(私にはないけど)


>実生活で私のような死別などの激烈な経験がなかったため
>幸せでぬるま湯の暮らしに

死別はとても悲しいものです。
人生を変えるほどかもしれません。
わかります。
でもこの死別を経験したことのない人なんて
ほとんどいないと思います。

この方の死別だけが
特別だったのでしょうか。
そうではないと思います。

  • 2015-10-10│20:35 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
何度も何度も繰り返し話しをしなければならないと言
う厄介な事なのですが話をします。

内面世界への関心は現実世界で辛いことがあれば、誰
でもそこに救いを求めたくなることは分かります。

しかし、これは現実からの逃避の場にしかなりませ
ん、不幸になる道なのです。

逃避と言うベクトルは、いかなる場合にも自分に幸せ
をもたらしません。

しかし、このような人たちの特性をカモにして、営利
の糧と考えている人たちが精神世界商売をしているか
ら厄介なのですが。

本物の覚者に出会えたなら、現実が辛かったら必ず現
実に行動を起こす方向で立ち向かわせます。

内面世界は逃避の場では無く、実は喜怒哀楽の現実世
界を真っ当に生きてエゴを正しい方向に育んだ人が次
に進むプロセスです。

現実世界が辛くて逃避するような場ではありません。

現実世界は「理想」というものを拠り所に進むベクト
ルですが、内面世界は「理想」をそげ落す道なので
す。

私が酔っ払いと言う人たちについて、なぜ、その人た
ちが私から酔っ払い呼ばわりされなければならないの
かを言いますが、ここにも典型的な人が今現れました
が、わたしやラピ。さんに議論を仕掛けてくるわけで
す。

それ自身が悪い事ではありませんが、議論の正体とは
自らの中の「理想」を根源とした行為なのです。

つまり、「理想」に基づく段階の人の一つの正当な武
器は議論なのです、ここに問題はありません。

問題なのは、その人が議論の題材にしているものが
「内面世界」に基づくものだからです。

「内面世界」とは元々エゴをそげ落すベクトルであ
り、「理想」も議論もエゴのたまもので、やっている
行為そのものがエゴをそげ落す「内面世界」を題材に
自らの「理想」を拠り所にした議論と言うエゴむき出
しの行為をしている、この狂った行為そのものが本人
のメンタルを駄目にします。

我々成就した者は唯作心と言う特殊な意識状態がある
ので、エゴの悪影響を全く受けずに行為だけ議論と言
うスタンスは取れますので、それを利用して、そうで
は無い人たちの説得にあたるわけですが、このように
なかなか理解してもらえません。


スッタニパータ796
>世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみ
>なす見解を「最上のも」のであると考えて、それよ
>りも他の見解はすべて「つまらないものである」と
>説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがな
>い。

まず、内面世界で言われている事は、「理想」段階の
人には真逆のベクトルですから、何の効果も得られま
せん。

>今の瞬間だけで満たされているので、過去や未来を
>思う余地はない。基準がなく、選択の必要がなけれ
>ば、今の瞬間の外に踏み出ることはあり得ない。

例えば、「理想」段階の人は間違ってもこのような事
はやらないで下さい。

過去の経験を参考にして、未来を見据えてしっかりと
生きて下さい。

これが「理想」段階の人の生き方であり、真逆のベク
トルであるここで言われているような事を、ここで本
エゴによる議論をしているような「理想」段階のレベ
ルの人がやったら、これはもうごちゃまぜ、酔っ払い
地獄に落ちるだけです。

「内面世界」の実践とは「現実世界」の実践とは真逆
です。

「内面世界」では「理想」もそげ落さなければならな
いので、この実践者は一切の議論禁止が実践内容とな
ります。

反対に「理想」段階の実践者は、「理想」や正しい議
論、この生き方がこの段階の人たちの実践内容です。

このようにごちゃ混ぜをしていると、酔っぱらって最
後は地獄行きです。

我々成就者もこのプロセスを踏み外さずに成就に至っ
ています。

正しい議論のプロセスも、議論禁止のプロセスも両方
を段階を追ってクリアーして今に至っているわけで
す。
  • 2015-10-11│09:37 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
TK師
ありがとございます。


>「内面世界」では「理想」
>もそげ落さなければならないので、
>この実践者は一切の議論禁止が実践内容とな
ります。


最後は全くその通りで
私もそうでした。

  • 2015-10-11│14:56 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]
No title
そうそう、「集中」についても説明しなければなりま
せんね。

>>正確には、現在の瞬間に生きる事などできま
>>せんし、その瞬間に集中する事も出ません(あな
>>たの言葉)

>できます。現にやっております。それしかできな
>くなりつつさえあります。そこに時間はありませ
>ん。

私のこの言葉を聞いて、本当に体現している人なら言
い返してきませんよ。(笑)

実は、このバーナーデッド・ロバーツの文を読んで、
全くおかしいと感じないで読める自身が既にその人は
酔っ払いです。

キリスト教圏のバーナーデッド・ロバーツのような悟
りの言語化のうまくない人の言葉を見ても、自分自身
で体現もしてもいないマインドの人なら、全くの違和
感なく聞けてしまうあたりがもう、ほとんど漫才です
が、本物なら言語化の下手くそな覚者だなの一言で
す。

酔っ払い、即ち、マインドが悟りを開きましたと言う
人を相手にするのは本当に手が焼けます。

悟るとは今この瞬間を体現する事ですが、客体が消滅
する主客合一の世界と言い表す事も出来ます。

「集中」とは集中する自分である「主体」があり、集
中される対象「客体」があって初めて成立する、マイ
ンドの行為です。

「集中」は、自分もいるし、マインドもあるし、悟り
でもないし、今この瞬間でもありません。

このバーナーデッド・ロバーツの文は、つまり、マイ
ンドの無い主客合一にマインドを使って集中すると
言っている事と同じ、全くのつじつまの合わない事を
言っている、これだけを取り上げれば酔っ払い文で
す。

「集中」とはマインドの行為です。

「集中」とは悟りの次元のものではありません。

ヨーガでは、制感→凝念→静慮→三昧と順を追ってマイ
ンドからの解脱のプロセスを進みますが、制感→凝念
→静慮がマインドの集中のプロセスで、最後に来る三
昧がマインドから解脱した主客合一の次元です。

http://hiroshimayoga.jugem.jp/?eid=103

今この瞬間の主客合一を表すのに、主体(自分)と客
体の存在する集中と言う言葉を使うあたりが、下手く
そな言語化ですが、この下手くそさが、ここにもいた
酔っ払いたちには自らのマインドを酔わすための格好
の酒の肴として作用するのです。

バーナーデッド・ロバーツと言う人は悟りの現象を言
語化するために、一生懸命に調べたそうですから、か
なり無理がある表現がちりばめられています。
  • 2015-10-12│08:48 |
  • TK URL│
  • [edit]
No title
おはよございます!


かつて私は集中によって
激流が起こり
集中によって激流を渡り切りました。

なぜ渡り切ったのがわかったかというと
その集中している私が消滅してしまって
その集中している行為も消滅してしまったからです。

私は集中を極めきりました。実践終了。

その時、その状況がわからないまま
私は師匠にこうメールしています。


『この私はだれですか?

師匠、何もできなくなる、努力ができなくなるってこういうことですか?

何もできないのですが
この私はなんですか?

師匠、これはなんですか?』


だから悟っていれば
今に集中して生きている、
なんて言葉は使わないし
使えません。

集中する対象がないのに
何に集中するのでしょう。

よって集中できるということは
まだ悟ってないということを
表現しているのと同じです。


この方は悟りについて語りましたが
それにかなりの思い込みがあります。
何から得た情報でしょうか。

それがいろいろ違っているから
その間違いをお伝えさせていただきました。


しかし、集中が悪いわけではないです。
(当たり前ですね)

っていうか、集中するって
いろんな場面で大切な時、あるよね。

集中できることは
人として生きる中で
すばらしいことです。


しかしその瞬間に集中して生きることが
悟りのようなことを言って
そうしている、それしかできない
=悟りに近づいている
と言う人は
大勘違いしていて
悟りから遠ざかるだけです。

ベクトルが反対ですから。

この方、ちょっとかわいそうかな
って思います。

しかし、何度伝えても
伝わらないから仕方ないですね。


ちなみに私の最後の実践の「集中」は
『今生きることに集中する』
という実践ではありません。

『今生きることに集中する』
この表現ではやってることが甘すぎます。

そんなもんじゃないですよ、激流は。
  • 2015-10-12│09:37 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]

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Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


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