この記事は私がやってきたことについて書いたものであり
誰にもおすすめしていません。
ある一人の話
と思っていただけたらいいかなって思います。
激流という言葉は
釈迦が使ったと思いますが
なるほどな、って思いました。
彼岸とか此岸とか
例えのセンスなかなかいいですよね(笑)
私流に激流のことを
言葉に表したら。。。。
限界への挑戦
かな。
(センスなし(笑)
限界と表現するのは
本当に精神ギリギリであり
自我の存在限界への挑戦だからです。
また釈迦が「悪魔との対話」と言ってたと思うのですが
この悪魔は
自我とも言えます。
自我が実践(修行)を嫌がるのを
無視し続け
自我を追い込むことなく
存在を否定することなく
しかし
存在できない状態に持っていきます。
追い込む以上に追い込む
それは
追い込むことなく追い込む、ということ。
追い込むという動作で追い込むのではなく
実践の結果
追い込んでしまうという状態がベストです。
(何度も書いてますが、ここは最大のコツのひとつです)
普通、人は
辛いのは嫌で
辛い状態にあえて進むことは
少ないのではないでしょうか。
もし、辛くても
その方向に向かって行けるのなら
自我のコントロールが
わりとできている人だと思います。
(それをおすすめしているのではありません)
そしてその自我をコントロールしているのも
実は自我であります。
自我はどこまで行っても自我で
「自分の意志で自我をねじ伏せる」
という自分の意志も
「ねじ伏せる」というのも自我の動きです。
意志が自我に負けず
更に実践する。
意志も自我も実践する動きも
すべてまだ悟ってない証拠であり
悟ればそれらはすべて消滅いたします。
嫌がる自我を意図して無視し、
(実践の邪魔になるから)
自分の意志で実践し続ける。
そして意志で実践し続ける
その「意志」すらもなくなるくらい
実践します。
例えて言えば実践そのものとなるくらい。
どうやったら自我が消滅するのか
ですが
まず、常識思考では無理です。
はっきり言って
かなりの無理をしなければなりません。
(よって私からお勧めはできません)
昔は出家して
体に鞭打って
血のにじむような修行をしていた人が
いたと思いますが
(今もいる??)
それほど大変な道のりだということです。
いや、実はそれ以上です。
しかし、どこかの記事で私は
「自分で自分の体を傷つけないでください」
と書きました。
私も自身自分で
自分の体を傷つけていません。
悟った後、
大した問題ではないでしょうが
やはり傷つけた体よりは
そうでない体の方がいいからです。
せっかく体がある状態で生まれたのだから
ある意味 体は大切にするべきです。
しかし、その代わりに
精神を限界状態まで持っていきます。
よってその状態だと
意図しなくても
体に不具合が出てくるかもしれません。
しかし、それは意図したものではなく
精神鍛錬の結果であり
精神からの影響であれば
悟れば復活可能です。
なぜなら悟れば
体に影響していた精神自体が
消滅するからです。
(しかし、体の存在には体の存在の法則があり
回復に時間がかかるかもしれません。
またその名残があったとしても
悟れば問題にはならないのですが)
ちなみに私のやった激流の実践の
初めのきっかけは
能力開発です。
これは私の存在目的のためでした。
かつては自我がありましたから
生きていくために
自己存在の目的が必要だったのです。
それさえ極めれば、
自分の限界まで極めれば
何かあるだろう
という感じでした。(笑)
この私の姿勢の良かったところは
「その能力を開発したらこうなる」
といった思考(予想、想像)が私になかったことです。
(いろんな本にはこうなる、というのが書いてましたが
私にとってはどうでもいいことでした、変やけど(笑)
別の言い方をしたら
目的は初めのきっかけとして使い
(自己能力開発目的)
実践を限界までやり遂げると決心したら
目的なく実践した、ということです。
目的は必要ですが
最後は目的すら手放します。
(しかし、実践に甘えが出たとき
実践に集中する手段として
目的を思い出すのは大切です。
その目的をモチベーションとし、
実践に集中できたら目的は手放します。
そもそも集中できていれば
目的を思う暇もありませんから
本気で集中できているのなら
そこを気にする必要はないのですが。)
具体的な私の実践内容は
お伝えできません。
この実践内容はまともにやれば
本当に危険です。
気楽にやった人だけが
そして至ってない人だけが
他の人に簡単にお勧めできる内容です。
(実際、この実践をおすすめしているサイトが多々ありました)
この実践は危険です、まともにやれば。
巷にある
能力開発法は
どれもたぶん
本当に極めようとしたら危険だと思います。
だから気楽に手出しはしないことです。
そしてするのなら
自己責任でするしかない。
その責任を負ってくれる人は
いない。
最後の道も自己責任で
進むしかない。
頼れるのは自分のみ。
そしてそもそもここでもし、
人のせいにしたら
激流は終了なんです。
人のせいにしたら
自我が安心して言い訳をして
逃げ道を作るからです。
よって激流も
実践内容だけでなく
実践する姿勢も大切となり
いかに激流を継続させるかもポイントです。
(継続させようとするのではないですよ。
その姿勢によって、結果的に継続するのです)
自我との対話で
いつでも激流が終了になってしまいます。
=激流を渡り切ることなく激流終了=悟れない
自我との対話で
自我が安心しちゃうからです。
普通に生きている人にとっては
自我との対話は大切です。
うまく使えば
安心して(納得して)生きていけます。
しかし、修行の身の激流を渡るものは
「安心」は激流の妨げとなり
それが起こってはいけない。
修行の身であるなら。
よって自我と対話することなく
自我の存在を無視し続け
精進しなければならない。
この激流を渡る時に
強い意志=強いエゴが必要となります。
エゴがエゴをねじ伏せ
さらなるエゴが実践を続けるのです。
いかに自分を追い込むか、ということです。
よって悟りの道は
簡単であるはずがありません。
自我の消滅は簡単に起こりません。
自我を追い込んで
自我の存在できない状態にする。
(消そうとすれば ますます消えない)
そしてさらに進む
進めば
進む私が消滅することがあります。
(そうなる保証は残念ながらない)
それが悟りです。
自我の消滅した
対象の消滅した
言葉に表せない平安の境地です。
しかし、そうなる保証はない。
それでいて保証された時点で
激流は起こらない。
保証があってはダメなんです。
そんな安心した未来の読める気になっている状態で
悟れるわけがない。
自分自身が自覚できないほどの
ちょっとの気づけないほどの自我との対話で
ほんのちょっとの(気づけないほどの)安心が
激流を終了させます。
(ここがまた運命の分かれ道)
未来がわかれば
人はある意味、安心する。
どんな未来であっても。
不安な未来であっても
「そうなんだ」と納得してしまうことは
ある意味、自我の安心となっている。
また、不安になるのであれば
それこそ、自我の言いなりとなっている。
そんな状態で
自我が消滅するはずがない。
私は限界に挑戦した。
挑戦することなく
結果的に挑戦していた
という感じなのですけども。
基本は実践をひたすらする、ですかね。
実はとってもシンプルなことかもです(笑)
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