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実践理論

私がやってきた代表的な実践は

「自分を捨てて心から何でも喜んでしよう」

です。


このブログで私の実践について
いろいろ書いていますが
実践を薦めているわけではありません。

しかし、この実践によって
私はかなりの恩恵を受け
おかげさまで今の私があります。

だからもしかしたら
私以外にも
恩恵を受けられる人がいるかもしれないと思い
書いてます。

なぜ実践なんてしなくちゃいけないんだ
と思う人は
もちろん、する必要はないのです。



私がやってきたこの実践は
理論的に解説することができます。

ちなみに実践時は
実践を分析すること自体が障害となりますので
分析したり、説明しようとすることは
禁忌です。

それは実践者の姿勢と
かけ離れているからです。

正しい実践者の姿勢は
自分の信じた善なる道を
ただただ進むことです。



私の実践時の特徴をいくつか挙げたいと思います。
(今はこの特徴は当てはまりません)


・本当に「善い人」になりたいと思ってました。
子供の時だったので
この思いに難しい理論は必要なかった。
自分なりの善い人になりたかった、完璧に。
そして単純に。


・自分にとっての「善い人」の定義があった
そうなれるよう日々過ごしました


・自分の判断する思いはいらないと思えた

よって実践に「自分を捨てて」を取り入れています。
(自我がある場合、
どんなに頑張っても「自分を捨てる」ことはできないのですが)
本気でやっていました。
また「喜んで何でもしよう」という実践が中心で
「自分を捨てる」というのが
実践の前提条件であったのもよかった。
(偶然か必然かそういう実践をしていました(笑)

どんなにがんばっても自我がある時は
自分を無くしてしまうことはできないのですが
(ここは悟り道のポイントです)
それを実践に中心としなかったのが
善かったみたいです。

よって何を実践するかを決める時
コツがあることがわかります。

まず、自分の理想の状態が何であるかを決め
それができている前提でする実践をする
という感じでしょうか。


私の理想の状態は
「自分を捨てて」=自我のない状態だったのかもしれません。
(その頃は自覚なし(笑)

詳しく書けば
いろいろ分析したり裁いたりする自分は
善くないと思ってました。
そんな善くない自分はいらなかった。

ただただ善い人になりたかったのです。

これは善くてあれは悪い
と判断する私も
とても偉そうだと思いました。

そんな判断する自分はいらないと思いました。

それをするうえで
喜んで何でもする
という実践をする。

ただただ善であるよう。

これを続けると
いつのまにか自分を捨てるに近いコツを
得てしまっていたのでした。



ここで「自分を捨てる必要はあるのか?」
という疑問がわくかもしれません。

そう思う人は
捨てる必要はないです。

私は「捨てたかった」からそうしただけで
そう思わない人は
捨てる必要がない。


実践を決める時は
自分の善なる基準で決めるべきでしょう。

またそもそもなぜ実践しなくてはならないのか
という疑問に対しても
そう思う人は
する必要がない。

私はそうしたかったからしたのです。

そしてそれをやり切りました。

(したい、だけで中途半端にして、
あれもこれも「したい」とやってしまうのとは
違います。)


そしてなぜ私が
自分の実践について書いているのか、は
それが結果的に悟りへの一歩だったからです。

だから、かつての私の実践内容が
悟りを目指す
(目指しても無理なのですが例えて言えば、です。)
誰かのお役にたてるかもしれない、と。

しかし、私はかなり自我が強く
人から言われた実践は
決してしなかったと思います。

自分で決めた実践だからこそ
やり通せた。

だから本気で進む人は
そもそも私のこのブログの内容は
必要ないかもなんですが。

まぁ、読みもしないでしょうか。(笑)

(かつての私にも
もちろん必要なかったです。
自分で決めたから。
ネットもない時代だったので。
そして子供だったので
本を買う自由なお金もそんなになかったから
情報もほとんどなかった、それがよかったのかな)


だから人生精一杯生きて
自分が本当に求める善なる目標に向かって
進むのが
結果的に悟りの道になる
という感じでしょうか。


私は心の底から善い人になりたかった。

悪い私はいらなかった。

それ以外に何も要らなかった。

この世の中のものに
私はありがたいことにほぼ興味がなかったので
実践に集中できました。

そんな人生何が楽しいの?
と聞かれたら
うまく答えようがないかも(笑)

そもそも楽しみなんて追及してないし。

そしてお聞きします。

では楽しい人生ってなんですか?と。

そうだから、どうなんですか?と。

例えて言えば私にとっての幸せな人生とは
真実を知ることだったのかな。


私は何かを楽しんだり
何かを得て満足したりする人生には
全く興味がなかった。

そんなもの(楽しむもの、得たもの)が
なくなってしまったら
どうなるのでしょうか。

私は何にも頼らない、
確実なものが欲しかった。
(これは「何も頼らない」、と言いながら結果的に
確実なものに頼ることを必要としていた
変な目標なのですが。
この矛盾もまた悟りの道のポイントです。
これが自我がある人ならではの目標です。
それでいいのです。)

それは自分の外に頼っては
得られないと思った。

永遠に変わらない確実なものが欲しかった。

それさえあれば後は何も要らないと思った。
(これも実は矛盾しているのですが
それでいいのです、道の途中は)

この頃
これまたありがたいことに
「永遠に変わらないものとは○○だ」
という
何かと定義しようとする私はいなかった。
(この定義づけは安心するきっかけであり
=停滞を意味します、実践者にとっては)

ここで○○だ、と定義してしまっては
その「○○だ」も
本物も得ることはできない。

何も得られない。

「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
を行動のきっかけとし
どうすればそれが得られるかを考え
どうすればいいかを決めた後は
確実なものを想像することなく
ただただ実践することが
勝手に得ることなく得てしまう秘訣です。


「あ~そういうことか」
という人こそ
何もわかっていない。

「わかった」という言葉を
私のここで書いている文章に関して思う人は
実は何もわかっていない。

(日常での「わかった」は
大切なわかった、が多いですが)


自分が体験して
それをやり遂げてはじめて
「そういうことだったのか」
といえます。

よって道の途中、
「わかった」というのは
明らかに「わかったふり」ですので
わかってはいけません。

「ふり」という偽物をつかんで
何が楽しいのだろうか。

お勧めの姿勢は
「なるほど、ではやってみよう」
かな。

やる前に結論付けては
その結論以上のものを得られません、確実に。


悟りは想像以上の状態ですから
今の状態での
悟りに関する想像は
すべて外れています。

悟りに関してあれこれ考えることは
悟ってしまえば
間違いだったことがわかりますので
よって悟りについて
あれこれ想像することは意味がなく
さらに悟りを求める人にとっては禁忌です。


かつてのコメントのやり取りで
私は否定する言葉を
多く使ったと思います。

違うものは違うとお伝えするしかないし、
偽のものを肯定できません。

そして大体
自分を否定されたと思う人は怒るのかな。
そして去っていく。

そもそも私が否定しているものがなになのか
わかっていない。

否定しているのは
「コメントした人」ではないのだ。


あるコメントされる方は
明らかに誰かの書いた本や
インターネットに書かれている内容を
自分なりに「解釈」し
あたかもそれが事実であるよう書いていました。

果たしてそう言っているものが
「自分の間違いない真実」
なのでしょうか。

人から借りたものではなく
間違いなく
自分が言っているその言葉どおりのものが
体現できているのでしょうか。

偽物の言葉を
あたかもそうであるように語る人は
悟りから離れています。

「こうである」
と人の言葉を借りて
わかったようなことを言う人は
悟りから離れています。

そういう人は永遠に悟れません。

なぜなら悟りとは
「そういうもの」ではないからです。



「わかった!」
は悟りからかけ離れています。

しかし
「わからない」
もかけ離れている。


わかった、わからない
そう判断するのではなく
とりあえず自分の善なる理想に向かって
歩き続ける。

そうすればわかることなくわかる。


わかってはいけないが
わからないもダメ。

そもそもそこから、
その判断から離れなければならない。


私の実践の特徴のひとつである
「自分を捨てて」は
その理論では片づけられない
悟りの本質に
ちょっぴり近いものでした。

(ほんのちょっぴりですけど(笑)
ゴマほどもないくらい(笑)



ちなみに私は
楽しい人生は全く、全く求めていなかったのですが
結果的に今
とても楽しいです。

これは想像以上のものでした。

なにに感謝していいかわかりませんが
例えて言えば
すべてに感謝です。


どうもありがとう。



ちなみに
「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
これは達成できたのか?という問いには。

いろんなお返事の仕方ができます。


まず、その「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
というものそのものが消滅した。

願望そのものの消滅により
達成した、達成していないを超えた達成をいたしました。

また本当は
「永遠に変わらない確実なものが欲しい」
この言葉自体に矛盾を含んでいるのですが
自我がある時は気づけない。


そして誤解されやすい言葉なんですがですが
(事実、誤解されていることがほとんど)
結果
「永遠なんてない」ということ。

変わらないも変わるも
そういった変化するものが
消滅してしまった、ということ。

そして確実なものなんてそもそもなかった
ということ。

それによって
ある意味、確実なそれがそうなったということ。


「永遠に変わらない確実なものが欲しい」と言う人は
「永遠に変わらない確実なもの」に頼った人です。

「これさえあればいい。あとは何も要らない」という人は
「これ」がなければ生きていけない人です。

「これ」を生きる糧としている状態です。

そしてついに「これ」もなくなってしまったら
どうなるのでしょうか。

この消滅過程が激流であり、
無くなる前に
激流と言われる状態になります。

そしてついには消滅して
何にも頼る必要のない状態となる。
(例えて言えば、なんですが)

しかし、体はまだありますので
こうやってブログが書けるわけです。


体がなければ
もう存在していないと思います。(笑)

体って本当に
ありがたいものなのです、ある意味。

こうやって皆様と
対話できるのも体があるおかげです。



言葉に表せないことなんですが
とりあえず、言葉にしときます。

だから私の言葉を
「わかった」なんて言っちゃだめですよ。(笑)

しかし、活かしていただけたら
と思いますが、、、。


私はとても幸せです。

ありがとう。










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Trackback

Comment

こんにちは。悟りに興味があってたどり着きました。

>「自分を捨てて心から何でも喜んでしよう」

これは仕事でも私生活でもですか?
何故こういった考えに至りましたか?
これを実践してどれくらいで変化が起きましたか?
  • 2016-06-02│15:32 |
  • とも♪ URL│
  • [edit]
No title
とも♪ さん

こんばんは。


>これは仕事でも私生活でもですか?

(私は子供のころからし始めましたが)
もちろん、区別なく「いつでも」です。
どんな時も、です。

>何故こういった考えに至りましたか?

わがままな自分に気づき、
そんな自分を捨ててしまって
本当に善い人になりたかったからです。
(しかし、一言では正しく表せません)

>これを実践してどれくらいで変化が起きましたか?

そもそもこの実践中に
どのくらいでどんな変化が起きたか?
という感覚(判断)があったなら
きちんと実践できていないことになります。

なぜなら自分を捨てての実践ですから
今自分がどんな感じでどう変わったかなんて
わかるはずがないからです。

自分が今どんな状態かを判断する自分さえも捨てて
「喜んで」を実践です。


ちなみに
「自分を捨てて心から何でも喜んでしよう」
がまさか悟りにつながるとは
思っていませんでした。
(自分を捨てる実践でしたから
そんな思いがないのは当たり前なんですが)

自分が決めたことを
きちんとやり遂げたことが
結果的に悟りにつながりました。
  • 2016-06-03│20:42 |
  • ラピ。 URL│
  • [edit]

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プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



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