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日常

私は日常、普通です。(当たり前 笑)


このブログで書いているようなことは
全く言いません(笑)

なぜなら必要ないからです。

そういう話をすることはほぼありません。

日常に必要ないのです。


しかし、日常でも
そのままお返しすることがあります。

「まず、人に言う前に
自分がしましょう、完璧にね」

ですね。




そして
ここで悟りについて語る人がいるなら
私はこういいます。


「では、まず、悟ってください。」


悟りとはこうだ、とか
言いきれる人に聞きたい。


悟りの何を知っているというのでしょうか。


よって結果的に
ここでのそういったコメントのお返事は
そういった内容のお返事になることが多いです。



日常の会話には日常の会話を

仕事の会話には仕事の会話を

笑える会話には笑える会話を

悟りについてなら悟りについての会話を


単にそれだけです。


ちなみに私は
日常話すこと、好きです。
(何かを黙々とこなすことも好きです。)

楽しいこと、おいしい食べ物
仕事の話
なんでも好きです。

近所のパン屋さんの話、アイスの話。
いろんなニュース

(最近はハーゲンダッツのきなこ黒みつ、みたらし胡桃。
買ったけどまだ食べてない、、。
なんせ、前に買ったのに
職場から持って帰るのを何日も忘れていて
やっと昨日持って帰った!
今日食べます!)

私自身、そういったことに疎いのですが
ありがたいことに
周りの人が教えて下さる。

人それぞれ得意分野があって
それをお互いに分かち合えるって
素敵だな、感謝やな!
って思います。

私の周りには
私にはないものを持っている人がたくさんいて
いろいろ日々感謝しています。


悟りについては厳しい私ですが
(自分が厳しい道を通って至ったから)
日常はそうでもありませぬ。

@(*・ω・*)ポッ




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自我消滅の基本理論


この記事は私がやってきたことについて書いたものであり
誰にもおすすめしていません。

ある一人の話
と思っていただけたらいいかなって思います。



激流という言葉は
釈迦が使ったと思いますが
なるほどな、って思いました。

彼岸とか此岸とか
例えのセンスなかなかいいですよね(笑)


私流に激流のことを
言葉に表したら。。。。


限界への挑戦

かな。

(センスなし(笑)


限界と表現するのは
本当に精神ギリギリであり
自我の存在限界への挑戦だからです。


また釈迦が「悪魔との対話」と言ってたと思うのですが
この悪魔は
自我とも言えます。


自我が実践(修行)を嫌がるのを
無視し続け
自我を追い込むことなく
存在を否定することなく
しかし
存在できない状態に持っていきます。

追い込む以上に追い込む
それは
追い込むことなく追い込む、ということ。

追い込むという動作で追い込むのではなく
実践の結果
追い込んでしまうという状態がベストです。
(何度も書いてますが、ここは最大のコツのひとつです)


普通、人は
辛いのは嫌で
辛い状態にあえて進むことは
少ないのではないでしょうか。

もし、辛くても
その方向に向かって行けるのなら
自我のコントロールが
わりとできている人だと思います。
(それをおすすめしているのではありません)

そしてその自我をコントロールしているのも
実は自我であります。

自我はどこまで行っても自我で
「自分の意志で自我をねじ伏せる」
という自分の意志も
「ねじ伏せる」というのも自我の動きです。

意志が自我に負けず
更に実践する。

意志も自我も実践する動きも
すべてまだ悟ってない証拠であり
悟ればそれらはすべて消滅いたします。

嫌がる自我を意図して無視し、
(実践の邪魔になるから)
自分の意志で実践し続ける。

そして意志で実践し続ける
その「意志」すらもなくなるくらい
実践します。

例えて言えば実践そのものとなるくらい。


どうやったら自我が消滅するのか
ですが
まず、常識思考では無理です。

はっきり言って
かなりの無理をしなければなりません。
(よって私からお勧めはできません)

昔は出家して
体に鞭打って
血のにじむような修行をしていた人が
いたと思いますが
(今もいる??)
それほど大変な道のりだということです。

いや、実はそれ以上です。


しかし、どこかの記事で私は
「自分で自分の体を傷つけないでください」
と書きました。

私も自身自分で
自分の体を傷つけていません。

悟った後、
大した問題ではないでしょうが
やはり傷つけた体よりは
そうでない体の方がいいからです。

せっかく体がある状態で生まれたのだから
ある意味 体は大切にするべきです。


しかし、その代わりに
精神を限界状態まで持っていきます。

よってその状態だと
意図しなくても
体に不具合が出てくるかもしれません。

しかし、それは意図したものではなく
精神鍛錬の結果であり
精神からの影響であれば
悟れば復活可能です。

なぜなら悟れば
体に影響していた精神自体が
消滅するからです。

(しかし、体の存在には体の存在の法則があり
回復に時間がかかるかもしれません。
またその名残があったとしても
悟れば問題にはならないのですが)


ちなみに私のやった激流の実践の
初めのきっかけは
能力開発です。

これは私の存在目的のためでした。
かつては自我がありましたから
生きていくために
自己存在の目的が必要だったのです。

それさえ極めれば、
自分の限界まで極めれば
何かあるだろう
という感じでした。(笑)

この私の姿勢の良かったところは
「その能力を開発したらこうなる」
といった思考(予想、想像)が私になかったことです。

(いろんな本にはこうなる、というのが書いてましたが
私にとってはどうでもいいことでした、変やけど(笑)

別の言い方をしたら
目的は初めのきっかけとして使い
(自己能力開発目的)
実践を限界までやり遂げると決心したら
目的なく実践した、ということです。

目的は必要ですが
最後は目的すら手放します。

(しかし、実践に甘えが出たとき
実践に集中する手段として
目的を思い出すのは大切です。
その目的をモチベーションとし、
実践に集中できたら目的は手放します。
そもそも集中できていれば
目的を思う暇もありませんから
本気で集中できているのなら
そこを気にする必要はないのですが。)

具体的な私の実践内容は
お伝えできません。

この実践内容はまともにやれば
本当に危険です。

気楽にやった人だけが
そして至ってない人だけが
他の人に簡単にお勧めできる内容です。
(実際、この実践をおすすめしているサイトが多々ありました)

この実践は危険です、まともにやれば。

巷にある
能力開発法は
どれもたぶん
本当に極めようとしたら危険だと思います。

だから気楽に手出しはしないことです。

そしてするのなら
自己責任でするしかない。

その責任を負ってくれる人は
いない。

最後の道も自己責任で
進むしかない。

頼れるのは自分のみ。

そしてそもそもここでもし、
人のせいにしたら
激流は終了なんです。

人のせいにしたら
自我が安心して言い訳をして
逃げ道を作るからです。

よって激流も
実践内容だけでなく
実践する姿勢も大切となり
いかに激流を継続させるかもポイントです。
(継続させようとするのではないですよ。
その姿勢によって、結果的に継続するのです)

自我との対話で
いつでも激流が終了になってしまいます。

=激流を渡り切ることなく激流終了=悟れない

自我との対話で
自我が安心しちゃうからです。

普通に生きている人にとっては
自我との対話は大切です。

うまく使えば
安心して(納得して)生きていけます。

しかし、修行の身の激流を渡るものは
「安心」は激流の妨げとなり
それが起こってはいけない。

修行の身であるなら。

よって自我と対話することなく
自我の存在を無視し続け
精進しなければならない。


この激流を渡る時に
強い意志=強いエゴが必要となります。

エゴがエゴをねじ伏せ
さらなるエゴが実践を続けるのです。

いかに自分を追い込むか、ということです。


よって悟りの道は
簡単であるはずがありません。

自我の消滅は簡単に起こりません。


自我を追い込んで
自我の存在できない状態にする。
(消そうとすれば ますます消えない)

そしてさらに進む

進めば
進む私が消滅することがあります。
(そうなる保証は残念ながらない)

それが悟りです。

自我の消滅した
対象の消滅した
言葉に表せない平安の境地です。


しかし、そうなる保証はない。


それでいて保証された時点で
激流は起こらない。

保証があってはダメなんです。

そんな安心した未来の読める気になっている状態で
悟れるわけがない。


自分自身が自覚できないほどの
ちょっとの気づけないほどの自我との対話で
ほんのちょっとの(気づけないほどの)安心が
激流を終了させます。
(ここがまた運命の分かれ道)

未来がわかれば
人はある意味、安心する。

どんな未来であっても。

不安な未来であっても
「そうなんだ」と納得してしまうことは
ある意味、自我の安心となっている。

また、不安になるのであれば
それこそ、自我の言いなりとなっている。

そんな状態で
自我が消滅するはずがない。


私は限界に挑戦した。

挑戦することなく
結果的に挑戦していた
という感じなのですけども。


基本は実践をひたすらする、ですかね。


実はとってもシンプルなことかもです(笑)

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善悪

覚者の本や言葉があると思うのですが
その覚者の状態を表した言葉を
真似したり
そうであるふりをすることに
実は意味がありません


例えば

善悪はない


という言葉ですが
悟れば確かに善悪はありません。


しかし、自我がある人は
確実に善悪があります。


例えば
「善しかない」
と言った瞬間
悪も存在していることになります、
自我がある場合は。


悟った状態は
善悪がないとは
善も悪も消滅していますから
「善悪がない」といえます。


しかし、善悪の判断がある
自我のある状態では

善悪はない=なんでもオッケー

という自己中心的な
結局は「判断」となります。

善悪はない、について
いろんな解釈が起こるのもそのためです。

その判断が存在している時点で
「善悪」も存在しているのです。


悟った場合

「善悪がない」

はその言葉のままで
善も悪もないということで
なんでもあり
というものすらでもありません。

いろいろ言葉に表すのは難しいんですが
自我がある場合
「善悪はない」というのは嘘になります。


世の中の出来事に対して
自我のある人は善悪の評価をしています。

これは大切なことです。

それはその人に善なる心があるためであり
そういった善悪の判断が
善の行動をするきっかけとなり
それが実践となります。

もし自分にとって
「悪だ」と思うものがあって
しかし
善悪はないというのが真理だと信じ込み
自分が悪だと思うものを
「善だ」と言ってしまう人がいるでしょう。

これはよくあるスピリチュアルに影響された思考です。

自分にとって
良くないと思う気持ちがあるのなら
それをしてはいけない。

それが善なる道です。


悟ってしまえば
善も悪も
心が消滅していますからありません。

しかし、悟った人にも
心がある状態の時もあったのですから
何が善で何が悪なのかはわかります。

しかし、悟った人自体には善も悪もない。

自我がある人には
確実に善悪があり
よって悟った人はそれを見抜く。


自分の行動を正当化するために
悪であるものを
「これは善だ」と言って
肯定するとして。

それは自分の「善なる心」に
嘘をついていますので
いつかそのついた嘘に
出会うでしょう。

自業自得とはそういうことです。


悟った人は心が消滅しているため
「善だ」
と言ったところで
それは単なる言葉であり意味はなく
ただそれそのものだけで
判断もなく
よって言葉によるカルマが生まれない。

嘘をつくこともないし
つけない。



道を歩く時は
誰にも言う必要はなく
自分の善なる心に忠実であればいい。

自分の善なる心に
嘘をつかず
清き道を歩いてください。


自我が消滅すれば

「善悪はない」

これがどういう状態かわかります。
(というか、そのものになっているので
わかる必要すらない)

しかし、悟ってない人にとってはこれは
想像できない境地なので
その状態を想像するのはおいといて
(自我がある場合
善悪はない、というのがどういう状態か
必ず想像しています)
今の自分の善なる心に従ったほうが
近道です。


「善悪はない」

善悪のある人=自我のある人にとって
そもそもこの
「善悪はない」について
いいか悪いか
ああだ、こうだと
その判断や思考がこの言葉を見た瞬間
起こっています。


自我があるうちは
どうあがいても
自我があります。

自分の中心に真実の自分がある

という言葉も
どうやってもその中心にあると思う「私」は
自我であり
その中心の私を見ているのも
自我です。
そう感じているのも自我。
そう思っているのも自我。

すべてに自我が付随しています。


悟った人は
「私」が消滅し
中心も外も消滅し
見る必要も観察する必要もなく
(そもそもそんなものがない)
そうであります。

対象が消滅しているのだから
観察するものもないし
見るものもない。

言葉に表すと
例えでそう書けますが
この言葉の通りになっているふりをすることは
そもそも「ふり」であって
本物ではない。

真似をして上達する
というのがあると思いますが
悟った状態を真似するのは意味がないです。

真似できる状態ではないから。

悟った人の悟りの道を真似するのなら
意味が少しはあるかもしれません。

なぜなら悟った人の悟るまでの道は
その悟った人の自我のあった状態での道であり
よって自我がある人に使えるものだからです。


悟った人の状態を真似してはいけない。

それは単なる妄想であり、
普通の人から見たら
その「ふり」はすぐにばれちゃいますよ。


善悪があることが悪いことではない。
むしろよい。

それは善なる道の道しるべとなる。

よって善悪があることは
悟りの道の一歩であり、
善なる道の基本です。

善悪がないなんて
嘘ついちゃいけません。


だって善悪がなければ
善なる道を歩きようがない。

それが悟った人であり
修行終了ということ。

悟った人には道すらない。

道そのものが消えてしまった状態。

意図も目標も意味もなく
ただあるのみ。

悟った人に
存在の意味は必要ない。


「存在の意味は必要ない」

そしてこの言葉を
自我のある人が
そのまま真似しようとすると
ずっこけます。(笑)

それはかなりの妄想に
とりつかれている人となります。

ないふりをしてはいけない。

自我がある人には
存在の意味、目的が必要です。

その意味を大切にしてください。


悟った人の状態の言葉を
真似することに意味は全くありません。

道から離れてしまっています。


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24時間幸せと激流

私はちょっと変わった道の
歩き方をしています。


1の段階:自分を捨てて何でも心から喜んでしよう
       という生き方

2の段階:自分の限界に挑戦


2の段階の激流により
一部の消滅は達成していました。
(これは悟った後に
そうであったことがわかりました。)

しかし、その状態で
それまで捨てていた人生を
しっかり味わいたいと
人として楽しみを求める道を選びます。

戻ってきました。


3の段階:スピリチュアルの実践


スピリチュアルの実践では
巷に言われているスピ系の実践を
いろいろしました。

ありがとう、感謝、神と一緒

などがそうです。

これについては
至る前のブログの記事に
どんなことをしていたのかを書いています。

はい、楽しかったです。


そしてこのスピリチュアルの実践の中でも

「24時間、オートマチックに幸せ」

という実践がある意味
なかなかよかったです。
これは普通にやってました。

しかしこの実践は
自分が悟っていないことを
証明するものでもありました。

自我のある時
24時間オートマチックに幸せ
何もしなくても24時間幸せ
がまだ達成できていないことが
やればやるほど
常にわかっていました。

幸せな状態になるために
常に意図が必要でした。

そして24時間幸せは
意志(思い)で達成できるものではないのではないか、
この実践から感じました。

しかし、それでもあきらめず
(どうしたらいいのかわからなかったし、
私が求めているものが
100%真実の幸せでしたので)
「24時間幸せな気持ち」を続けていました。


ここで大切なことなんですが
実は
この「24時間幸せ」は、
悟っていないことの指標にはなりますが
これによって悟ることはできません。

よって私はこの3の扉をたたくのをやめ

第4の段階:激流に飛び込みました。
(激流は簡単には起こりませんが。)

第2の実践で
激流を経験していましたので
激流が起こった時
「これだ!」
とすぐにわかりました。

そしてそのまま激流に向かって進み続け
至ることができました。


確実に言えることは
悟るためには
激流は必須、ということです。



スピリチュアルは楽しいことがたくさんありました。

スピリチュアルでは
第1の実践では経験したことのない
感情を経験しました。

それは

「得られない苦しみ」

でした。


第1の時は何も求めてないがゆえに
または自分を捨てていたため
得られない苦しみもほぼ発生しませんでした。

そして発生していたとしても
それすらも捨てていたので
感覚として残っていません。

これは第1の実践の恩恵です。



スピリチュアルの実践では
人としての幸せと辛さを経験できたと思います。

このたくさんの経験のおかげで
人として生きる道を
最後、後悔なく捨てる決心ができました。

「もう十分。」

なんでも思いっきり経験すれば
卒業を選択できる日が来ます。

今の状態を
精一杯生きてこそ
今の状態からさらに飛躍できるんです。

今の状態を十分に味わっていないと
未練として残り
そこから卒業できません。


あと大切なことは
善なる道を選ぶこと。


辛いことも大変なこともあると思うのですが
その時こそ、
その時の善なる選択をします。

どうぞ善なる道をお歩きください。

それが最大の近道です。



皆様、後悔ない人生を
精一杯生きてください。


それが素晴らしい道となります。


進めば道は開けてくる。

求めることなく
道はやってきます。

逆に求めれば道は離れていく。


そんなもんです。


だからとりあえず今を
自分なりに精一杯がんばる。

悟りの理論なんて
全く要らないし
逆に邪魔になる。
(頭でっかちの人がたくさんいました。
それによって行動できないんです)


道なき道により
道は開けます。


私はそうでしたから
みなさんもそうではないでしょうか。



しかし、私は
全ての人にとって
悟りが素晴らしいものとは
思ってないです。

私にとっては
悟りにより苦が消滅し
本当によかったのですが
この状態が必要でない人は多いです。


普通に幸せに生きることができれば
それが一番です。

普通の幸せ、いいですよね。


しかし
普通の幸せでは満足できない、
究極を求める人が
悟りを求めるのだと思います。


だから私は悟ることは
特におすすめはしません。

例えて言えば
究極の幸せを得るためには
究極の苦を味わなければなりません。
(これは例えですよ。
しかし的を得た例えです。
究極の苦が激流と言われるものです。)


どうぞ、みんな幸せに生きてほしいです。

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悟りの道について

みなさんこんにちは!

いかがお過ごしでしょうか。


私のかつての生き方
「自分を捨てて心から何でも喜んでしよう」は
なんの見返りも求めていませんでしたし
目標もありませんでした。


ただし、例えて言えば

自分の理想を生きること

を目標としていたのかもしれませんが
誰かに好かれようとか
何かを得ようとしていたわけではありませんでした。


私のかつての生き方

「自分を捨てて何でも心から喜んでしよう」は
それまでの私の
わがままな私を反省してのことでした。


私は長い道を歩きました。

しかし、この道がいつ終わるのだろう
という疑問が起こることもなく
そしてまさかこの道が
悟りにつながるとは
全く思っていませんでした。

ただただこれが私の生き方でした。

だから悟りについての知識は必要なく
自分の善なる心に従って生きれば
必ず道は開けます。

私がそうでしたから
みなさんもそうではないでしょうか。

私が特別なのではありません。


しかし、私の長い道、
完璧ではありませんでした。

怒りが爆発したこともあったし、
人にも迷惑をかけた。

そして周りから見たら
私は変わった人であったけど
必ず誰かはそばにいてくれました。


失敗したら反省して
また道に戻り、
あららということがあっても
今できることをやってまた道に戻り。

私の中で悟りの道を歩いている
という自覚がなく
出家した人みたいに
意図的に修行しているという感覚はなかったため
完璧ではなかったですが
それでもそう生きました。



ちなみに自分を捨ててというのはどういうことかというと

「喜んで」以外の感情が起こったら
その思いを切り捨てて
「喜んで」をするということです。

この感情を切り捨てる技は
やればやるほど
できるようになって
最後の激流で大変役に立ちました。

(激流時、自分の感情やそれまでの積み重ねてきたカルマが
無防備な自分に襲ってきます。
ここで守ってしまったら激流終了。
自分を守ることなく、いろんなものにさらされた状態で
激流を渡ることとなります。
だからそれまでの積み重ねは大事です。
それまでの自分の行いが
直撃します、最後の道で。)

なんでも第一歩から。

初めから名人級なはずはありません。

私もそうです。

そして私ができたのだから
みんなもできる可能性がある、ということです。


しかしこの自分を捨ててという方法が
自分の理想にあっていないのなら
無視すべき方法です。

自分が信じてがんばれる理想を
自分の基準で持ってくださいね。

それでこそ、自分の理想を全うできるんです。


私はかつて自分の理想を全うしました。

全うしたことがわかる基準として
第2の扉が開きます。

その第2の扉が私の激流への一歩でした。

しかし、私はあきらめなかったです。


余談ですが例えば私の道であれば
自分の道を全うする道を歩き
最終的に激流に飛び込み
悟ったのですが
(そしてそれを伝えていますが)
そもそもそんな激流に飛び込みたくない
と思われ、
よって理想を生きるのはイヤダ
という人もいるかもしれません。

それでいて楽して悟りたい、と。

これはなるほど、、ですが
面白い意見です。

普通に生きていても
壁にぶつかる時があると思います。

普通に生きても
試練があるわけです。

そもそも楽して生きている方が
悟りたいって思うのでしょうか。

悟りたいと思う時点で
その人にはなにか
そう思う原因があるはずです。

楽して悟りたいって、
何かから逃げていませんか?

(まぁ、その一つとして
少なくともがんばることから逃げていますよね。
逃げていては悟れません。)


理想に生きている時
私の場合、いろんなものに
結果的に守られていました。

例えばそのひとつとして
「嫌な感情」から守られていました。

よって理想に生きる道は
必ず恩恵を得ています。

そして必ず未来につながります。



「楽して生きる」

これを永遠に続けることができるのでしょうか?

できるというのなら
それもありかもしれません。

しかし「楽する」という時点で
その反対の「苦労する」も存在し続けていますので
常に両方が存在しているのです。

よって楽する道には
苦労が付随しています。

「楽して悟る」について
「楽する」というのは自我の動きなんですが
その自我が消滅するために
「楽する」という行為で
自我が消滅するのでしょうか。

自我が消滅することは
自我を頼りに生きているものにとっては
(多くの普通の人)
死に匹敵します。

私もそうでした。

それが激流というもの。


そして「楽して悟ろう」という理論は
そもそも悟ろうという方向性自体が変です。

悟りとは「~しよう」というものではなく
自我(対象)の消滅のことなので
いかに自我を消滅させるか、という理論になるはずです。

「楽して生きる」
と言うのならわかりますが
「楽して悟る」と言うのは変ですので
そこをお間違いないよう。

そして楽して生きるのは自由ですが
それで悟ることはできませんので。

しかし、悟らなくても
幸せならそれが一番だと思います。

だからそういう方は悟ることを
目標にする必要が
そもそもないです。


しかし私は幸せの中の
苦の存在に気づいてしまいました。

だから普通の幸せはいらないと
それを捨てたのでした。



(悟りについて語る方が多いのですが
間違っていたら指摘させていただいています。
ほぼ間違っています。
それはまだそうなっていない人にとっての
想像、妄想でしかありません。

もし語るのなら
悟りについて語るのではなく
自分の生き方について
語ってみませんか。
ちなみに私は至るまで
自分の生き方を語ったりすることは
どんなに仲がいい人にも
ありませんでしたが。

黙々と歩く人は
何も語らず、語る必要もなく
ただただ歩きます。)



私がかつてこのブログで間違っていた表現で
「悟り続ける」というのがあったのですが
この言葉も動作を表す言葉です。

私は永遠に悟り続けること(知り続けること)が
悟りだと思っていました。

これではなんだか悟っても大変そうですね(笑)

実は悟ってしまえば
なんもしていません。

知ることすら必要ない。

知るということは
対象があって知ることができるのであって
対象が消滅すれば
知るものはない。

ただそれのみなのです。


ちなみにですね。

悟りは目指すものではありません。

結果的にそうなるものです。


よって今生きている中で
悟ろうとしないでください。

悟ろうとして悟りの情報を探し
それをやろうとすること自体
悟りから離れてしまっています。


今、人として生きることを大切にしてください。

悟り=人間卒業です。

卒業するために
それまでのカリキュラムの合格点をとらなければ
試験の資格すらありません。

段階を無視することはできません。

飛び級ありません(笑)


プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



 admin






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