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自分の思いを捨てて

「自分を捨てて」の実践は
別の言い方をすれば
「自分の気持ちを捨てて」でした。

ただただ自分の中に確実にある
「判断(=批判)する心」の存在を知っており
それがが嫌で消してしまいたかった。


究極、
自分を捨てるのなら
今自分が住んでいる環境も捨てて
自分を追い込むのもひとつの道だったかもしれません。

しかし、もし
環境を変えてやりとげることができたとしたら
環境のおかげであることが否定できなくなる。

私は自分の力でやり遂げたかった、
環境、周りに関係なく。
(自我がとても強かったのです、あきれるほどに(笑)

だからこそ、環境を変えず
そのままの状態で実践を始めたのです。

そして私がもし例えていえば出家したのであったのなら
私のやった方法は
普通に生活している方々には
使えないし伝えることはできません。

しかし、私は社会生活をしたうえで
実践を全うしたので
私の方法は普通の人にも使えると思います。


私の実践は自分の気持ちを捨てるものではあったのですが、、、

自分の気持ちを大切にすることは
正しい方向であれば
人に対して思いやりを持てます。

気持ちを大切にし
人の気持ちの動きなどを
自分に照らし合わせてではありますが
(=自分が基準ではありますが)
理解しているからです。

だから正しい方向での気持ちを大切にする生き方であれば
思いやりを持った人となります。
(正しい方向でなければなりません)


私は自分の気持ちを捨てていたので
まず、自分の気持ちがありませんでした。
(初めから完璧な実践はできていなかったので
もちろん、自分の気持ちがわくことはありましたが
その都度捨てていました)

自分の気持ちを大切にしている人の場合
自分の基準ではありますが
こうすればこういう思いになる
という基準があるので
人に対しても
こうすればこう思うだろうという予想ができ
思いやりある行動
相手に嫌な思いをさせない行動ができます。

思いの動きが予想できて
それに伴った思いやりある行動ができる
ということです。

しかし、私は
自分の気持ちを捨てていたがゆえに
一般的にある思いの動きが
私に当てはまっていませんでした。

例えば一般的に
人が嫌な気持ちになる出来事があっても
私は嫌な気持ちになりようがなかった、ということです。
(面白いのですが
言い方を変えれば
嫌な出来事は起こらなかったと言えた)


自分の気持ちを捨て続ける実践は
捨て続けるものでしたが
結果的に恩恵を得ていました。

なぜこの実践を思いついたのか
わからないのですが
(しかし、本当にじっくり考えました)
とてもありがたい実践だったと思います。


しかし、この実践が
すべての人にあっているわけでは
もちろんありません。


まずは人として生きるためにも
自分を大切にし
周りの人を大切にしなければなりません。


それをまず全うすると
必ずある一つの答えを得ます。

そこからまた道は開けます。



人生とはいろんなことの繰り返しではありますが
それを繰り返して感じることがあると思います。


私も自分の中に気持ちがあったからこそ
それに対しての実践が始まったのです。

もし、自分のその気持ちを
見て見ぬふりをしていたら
今の状況はあり得ませんでした。

まずは自分の気持ちに向き合う。

しかし、それは
まずは自分の周りに向けて
働きかける生き方があったからこそ
自分の気持ちも発生したのです。


外も内もベクトルは違っていても
その存在自体、同じものです。

内、外
振子のように人は揺れ動きます。

例えていえば
社会に出て働くことと
プライベート
どちらも必要であるように。

テンション上がることもあれば
落ち着く時間が必要でもあるように。


私はその振子に気づいていました。
そしてたくさんの人も気づいていると思います。

それに対して疑問に思い
それについて真面目に
人生かけて取り組みました。

その振子を終わらせたかった。

そしてついに
その振子そのものが消えたのでした。


問題が発生したら
答えが必ず存在し
それを解決する方法は絶対にあります。

確実にあります。
見つかるまであきらめなければ。


あきらめないこと


これは最も大切です。








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人としての幸せ

私は第三の実践として
人としての幸せを求めた実践を
しました。


これがあったからこそ
最後の激流に
なんの悔いもなく飛び込めました。


なぜそうだったのかは
人の数だけ答えがあるので
お伝えはしませんが
(伝える必要、ないですね!(笑)
言えることは
人として精一杯生きれば
必ず道は開けるということ。


または人としてきちんと生きなければ
次の扉は開かないということ。


大いに考え
大いに工夫し
悩むこともあるだろうけど
悩みさえも実は力になる。

悟りの話は
とてもマニアックで
どこかのよその人の話として聞くのは
面白いかもしれないけど
現実世界ではほぼ役に立たない。

なぜなら悟りの道は
現実からかけ離れた道だからです。


人として幸せに生きる道こそが
道だと考える。

その道があってこその
その先の道であり
人として求めるものを得るために
悔いなくやった人以外に
その道は開かれない。


私もそうでした。


人としての道は
素晴らしい。


どうぞ、皆さま
自分の理想とする幸せな道を
お歩きください。

自分が大好きな道を!

善なる道を!


あ、このブログの題名

大好き!ハッピー! な毎日☆

やった!(笑)


これやろ!



@(*・ω・*)ポッ



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本当にいい人

かつて私は
本当に「いい人」になりたかった

それを心から望み
どうすればそうなれるかを
自分に問い
得られた結果を行動に移しました。


「いい人」が存在するとき
いい人とそうでない人が存在します。

なぜなら
そうでない人がいなければ
いい人がどういう人かわからないからです。


私はそれをわかっていました。

いい人になりたい
と言いながら
そうでない自分が存在しているのを知っていました。

よって自分の実践の中で
「喜んで」の実践だけでなく
いい人でない自分を「捨てる」実践も付け加えました。
(捨てようと思って捨てられるものではないけど
あきらめなければいろんな形で
それが叶います)

結果的にいろんな方向から
この実践はうまい具合に働きました。


ちなみに私は何かの本を参考にして
この指針を決めたのではありません。

理想の自分を目標にし
どうすればそうなるかを
自分なりに考えた指針です。

結果、どこかの偉い人が言っている方法と
似た形になっているかもですが
(似てないかもですが)
私はそのどこかの偉い人の言葉は参考にしていません。

自分が本当にそうなりたいと望めば
道は開かれ
開かれただけではそれはダメで
日々の行動が大切なのです。


私の実践は
周りから見たら変だったかもしれません。

いや、変だった(笑)

「いいなぁ。悩みなさそうで」
と言われたこともある。

最高の褒め言葉ですね。
(しかし、その当時は
なぜそう言われたのかわからなかったけど)


もちろんいい人でない自分が常に存在していたので
その頃、実践自体完璧ではなかったですが
失敗してもあきらめず
常に自分の理想に向かっていました。


この実践中、
いろんなことがありました。

一言ではもちろん表せないし
人に伝える必要もないと思うのですが。
(誰も聞いてないよね(笑)

みんな自分自身が主人公で
自分にしか知らないことがあります。

私は表でいい人
裏ではそうでない人
という在り方も許せませんでした。

そして自分の理想に対して
人に押し付けることもありませんでした。
(自分がこうあるべきで
よってみんなもそうであるべきだ
と思ったことはありません。
あくまで「私が!」でした。)

どんな時でも喜んでをしている私が
うっとおしいと思う人
理解できない人
いろいろいたと思いますが

実践中はそんなこと考えたことも
なかったですが、、、。

迷惑をかけた人もいるかもしれない。
申し訳ありません。

しかし、私の理想を貫かせさせてくれた
周りの人々、環境、その他いろいろに
感謝いたします。


そのおかげで今があります。

予想もできなかったこの展開。


はい、予想内であれば
その予想する自分を超えていませんので
そんな結果ではまだ
予想する自分が存在しています。

自我はまだある、ということ。

自我消滅の状態は予想できない。

その自我消滅を予想する自分が
予想できる自我消滅であるのなら
予想する自分が存在している状態の
自我消滅の予想です。


@(*・ω・*)ポッ




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この世は幸せしかない

みなさまこんにちは。

いかがお過ごしでしょうか!
@(*・ω・*)ポッ



今、私の状態から言えることは
例えにはなってしまうんですが
「この世は幸せしかない」
ということです。


「この世は苦ばかり」

これは私には当てはまりませんが
これは一般的に果たして真実でしょうか。



かつての私は真実、無条件の幸せが欲しかった。

そして自分の力でその幸せを
作り出したかった。

当たり前の幸せよりも
さらなる高みを求めておりました。

よってこの目標のために
当たり前の幸せを捨て
普通の幸せを捨て
今ある=過去から引き続いている幸せも捨てました。


幸せになるために
今ある幸せを捨てる。

矛盾しているかもですが
その時の私の志に
「自分の力で幸せを作り出す」
というのもあったので
既存の幸せは捨てるべきものでした。
(私が作った幸せではないから)

そしてこの志の根底に
自分の力で人を幸せにしたい
というのがありました。

だから必ず自分の力で幸せを創造する、と。

そのためにはまずは自分がやらなければ、と。

かつてのもともとあった幸せが
どこからやってきたのかわからないし
少なくとも私の力で創造した幸せではない。

=その時の私の求める幸せではなかった。

このあたりからもかつての私の自我の強さがわかります。
(;^ω^)

「自分が!」がとても強かった。
とても、とても。

よってかつてあった普通の幸せさえも捨てました。

このことは文章に書けば簡単に見えるかもですが
本気でやれば大変険しい道となります。

すべては書けませんが
本当に志高くし、
本当にかつての私が求めるものを得るために実践するなら
厳密にすべてを捨て続けなければなりません。


例えば今動かしているその手。

何も考えなくても動かせるその手は
自分の意志で動かしているのでしょうか。

日常のできる当たり前は
自分の意志からできているものではないなら
すべて捨てるべきものとなります。
(かつての私にとっては、です)

そうやってすべて捨て続けて
今までできていたことも捨て続け

そうやって否定し続けたらどうなるでしょうか。
(この答えはやったものにしかわからない)

そのうえで私はさらに実践をしました。

私の目標達成のためには
私の意志以外の何かに頼ることはだめでした。

なんの教えにももちろん頼らない。
誰にももちろん頼らない。

私以外に頼らない。

泣く暇はない。
倒れる暇もない。

ただただ自分の意志で進み続ける。

意志が壊れそうになっても
私の意志でやり遂げると決めたからには
壊れるわけにはいかない。

壊れた時は意志が負けた時だ。

負けるわけにはいかない。

何にも頼らず、と言いながら
自分の意志に頼ってましたが
それこそが対象がある人にとってできることであり
よって意志のある人間こそが
悟るチャンスがあるのです。

こうやってどん底=激流を
自分の意志で渡り切った私は
今無条件に幸せなんですが
それを得るために
幸せのまったく反対の道を歩きました。

面白いですね。


ちなみにその実践時
本当に大変な状況であったのですが
「この世は苦である」
なんて思う暇はありませんでした。

(まぁ、幸せを求めていたので
「この世は苦である」なんて言葉
認められなかったと思いますが(笑)

この時の実践の内容は
具体的にお伝えすることはできませんが
私はその実践をやり遂げれば
完璧な幸せになれると思ってました。

しかし
何度か書いていますが
この完璧な幸せを想像してはいけません。

私は自分を捨てることができたので
この想像はしようがなかったのが良かったです。


たとえて言えば
ある最高の幸せな場所があるとして
そこに行ったら永遠に幸せが続くところで
そこに行きたいと思うとき
どうやったらいけるかを考え
揺るぎない方法が見つかったら
最高の場所を夢見ることなく
ただただその方法を続けることです。

道が見つかったら
夢見ることなく
ただただ歩くのみ。

夢見ることは
その夢見る時は幸せかもですが
当時の私にとっては
夢にさえも頼らない幸せが欲しかったので
夢見る幸せ、いりませんでした。

なんだか否定しまくっていますが
実際私はそんな道を歩きました。


そして今、
否定しようがない状況となってしまいました。
(笑)


そして私の今の否定しようがない状況で
お伝えしたいことは
日常の幸せを「幸せだ」といえる人は
「幸せだ」
ということです。

私は日常の幸せに満足できなくて
険しい道を歩くこととなったのですから。

(しかし、その結果、
幸せを超えた幸せとなった。
自分が望んだ以上の幸せでしたが、、。)

努力した分、幸せになれると思います。

しかし、努力することなく
今幸せを感じる人々も
いいことだと私は思います。

そういう方には
ずっと幸せでいてほしいです。

ずっと笑顔でいてほしいです。

「この世は幸せしかない」

これです。


みなさん
たくさんたくさん幸せになってください。

そのまま幸せでいてほしいと思います。

日常、私の周りの人には
人としてずっと幸せでいてほしいと思っています。

よって日常で
悟りについて話すことはほぼありません。

悟りは普通必要ない。



「この世は苦ばかり」

これは果たして真実でしょうか。

なぜそう思うのでしょうか。
何を苦としているのでしょうか。

その苦には必ず条件があります。

たとえて言えばその一つは
これが苦でそうでないのが楽だ
という条件です。

条件については人それぞれですが
苦も幸せもベクトルが違うだけで同じもの。

この言葉から
苦に対してどう対処したらいいのか
なんとなくわかるのではないでしょうか。


しかし、さらなる高みを求めるのなら
それを叶える方法はある意味ありますが
それはどの時代も
簡単に開示されるものでは
なかったと思います。

ちなみに、実践時
私に開示されるべきものはほとんどなく
最後のきっかけは頂いたものの
私流の経典がすでにありました。

そして他にも何度か
きっかけはいろんなものから頂いた時がありましたが
やはりそれは単なるきっかけであり
私流の経典により
道を全ういたしました。

なぜそうだったのか
不思議ですが
この経典は私しか知りません。



余談ですが
私がよく言っている
「自分を捨てて」は
『自分の気持ちを捨てて』
と言い換えることができるかもしれません。


@(*・ω・*)ポッ


[Edit]

無条件

私のかつての目標は
段階ごとに変わっています。

1番目は
自分の理想とする自分が
どういうものかを決めて
そうであるよう努めました。

2番目は
自分の限界に挑戦し
自分の決めたことについて
この世界のだれにも負けないくらい
挑みました。
(この結果、一部が消滅しました)

3番目は
全体的な幸せを求めて
そうであるよう努めました。


どの段階も中途半端にやめて
次々と新しい目標を設定していたわけではなく
それぞれきちんとやり遂げて
次の段階に進んでいます。

ちなみに「やり遂げた」
という評価は
自己満足での判断ではありません。

本気で実践していたら
「やり遂げた」というのがわかりますので
大丈夫です。
(ここではやり遂げたということがどういうものなのか
あえてヒントは書きません。
ヒントを書くとそうであるふりをしてしまう可能性があるからです。)



この3つの段階、実は共通点がありました。

「無条件」というものです。


1つ目、無条件に喜んでをしていました。
2つ目、私のやった実践は「無条件」でした。
3つ目、無条件の幸せを求めていました。

特に1つ目と3つ目は
無条件の喜び、幸せという点でとても似ています。

1つ目は
何もなくても
(例えばいいことがなくても)
無条件で喜んで対応していました。

3つ目は何もなくても幸せというものを
求めて実践していました。
これも何もいいことがなくても
幸せであることを選択し続けました。

この幸せや喜んでの感情は
体があってのことで
体を使うことによって表現していました。

何かがあってうれしい時、
自分はどういう状態になるのか。

それを知り、
うれしいことがなくても
その状態を体現する、といった感じです。


例えば今悲しい
でも喜んでを実践しようとする時のヒントとして。

どちらの感情も体に現れるので
感情よりもその感情の体の状態に注目し、
(感情に注目すると
ある勘違いが起こり
その感情がすべてとなってしまい
コントロールできないことがある)

例えの一つとして
悲しみの氣の状態を捨て
喜びの氣の状態を体現する、といった感じでしょうか。

実は喜びも悲しみも同じもので
それぞれの感情によって体に何が起こるかを
知ることによって
それを体現することができます。

どちらの感情も
体に影響を及ぼすと言った点で
一緒なのです。

うれしい時、
体はどういった状態でしょうか。

悲しみの時は?

もし悲しみがやってきたとき
その悲しみが体に何をもたらしているかを
味わい、知り
そうでないようするのも一つのコツです。

悲しみがどういうものかを知り
克服する。
そうすれば悲しみがやってきても
対応の仕方がわかってきます。

(余談ですが私の実践はそうではありませんでしたが。
私の場合、悲しみすらも
起こる前にぶったぎっていました。
これができるならこの方法がいいのですが
まずは悲しみが起こっても
対応できれば
願望実現に近づけると思います。
どんなことも一歩づつです。
よってここに書いている内容が
私のやってきて来た方法とは異なる場合が
多々あります。
私のやってきた方法をまともに書くと
とても厳しい内容になるかもしれませんから。
私の方法を優しくアレンジしたものが
このブログの内容となっていることが多いです。)

体(または氣)をコントロールできれば
感情もある意味、コントロールできる可能性があります。

(私の場合はコントロールする前に
感情を起こさせませんでした。
しかし普通、人は感情が起こります。
だからこそ、これとうまく付き合っていく方法が
まずは有益、役に立つと考えます。

感情のコントロールも対応も
実は私はある意味やっていません。
今の私からしたらやっていると言えるレベルですけども
その実践は源からのコントロールであり
その末端の感情をそもそも発生させないような方法でした)



さて、幸せというのものとは一体なんでしょうか。

一般的には楽しいことがあったり
求めていたものが手に入ったり
そういったものがあって幸せだと感じると思います。

しかし、わたしは実践として
そういったものが何もなくても幸せとか喜んでとか
やってました

まぁ、常識をぶっ飛ばしていたわけです。(笑)

しかし結果的に今それが叶いました。

常識をぶっ飛ばした幸せです。


私の今の幸せには
何も条件がありません。

よってとても楽です。
幸せになるために
求める必要がない。

もうすでにそうであるから。

幸せに条件がない。
言い方を変えれば
常に幸せそのもの。

何もなくても幸せで
何も求めることなく

求める目標もないので
そこに向かって意志を使って頑張る必要もなく
(実はがんばることなくがんばれます)
ただただ幸せであります。

別の言い方をすれば
目標が生きる糧に必要なく
ただあるだけで幸せ。

求めてがんばって得て幸せ
というものがなくても幸せ。

生きがいというものを設定する必要なく
しかし、例えて言えば
すべてが生きがい。

この幸せは
「何かがあって幸せ」とは異なるもので、
幸せとか幸せでないとか
そういうものがない幸せであり
絶対的な幸せです。

普通、何かが叶って幸せであったら
必ず叶ってない状態があって
そこから叶うことを求め
叶うことによって幸せを感じます。

しかし、この幸せを続けるのには
努力が必要です。

なぜなら次から次へと願望が起こるからです。

常に叶っていない状態が付随しており
だからこそ
叶ったら幸せを感じます。

これは相対的実現と言えます。

叶うということは素晴らしいことですが
叶わない状態があるからこそ
素晴らしいのです。

よって叶うと叶わないは
ベクトルは違いますが
実は同じ仲間のもので
この一般的な幸せというものとと
私の今の幸せとは違います。

だからわたしの状態は
想像できないと思います。

試しに想像してみてください。




その想像したものは必ず違っています。

想像した瞬間
私の幸せとは違っています。

なぜならこの幸せは
想像以上のものだから

別の言い方をすれば想像外のものだからです。

想像する時点で終わりです。
外れです。

だからこの想像以上の幸せについて
「わかる」と言う人よりは
「わからない」と言う人の方が
矛盾した表現となりますが
少しその状態をわかっています。
(ほんの少しですが)


ここで気を付けなければならないことは
絶対的幸せがどうであるかを想像し
そうであるふりをすることは
道から離れているということです。

私の実践はそうではありません。
(文章からはそう見えるでしょうか?)

なぜならその想像した幸せを実践すると
想像しているものが
幸せの条件となってしまうからです。

私は想像なく実践しました。
その想像すらも条件になってしまうこと
=それは無条件でないことを
知っていました。
(知っていた、というのも厳密には違うのですが)

絶対的幸せには
条件がいりません。

本当に絶対的幸せを実践とするのなら
想像することなく
思い浮かべることなく
幸せでいなければなりません。

このあたりはかつて
自分を捨てても実践していた私にとっては
難しくないものでした。

想像することなく
思いうかべることなく
ただただ実践する。

これは前述の体の状態を体現することが
やはりコツとなるでしょうか。

そして意志の消費を無駄にしないように。

実践以外に思い(意志)を消費しませんでした。
(思いが浮かびかけても常に切り捨てていた)

よって実践していない時は意外に無心でした。

実践以外のことに意志を消費してしまうと
それは思いの分散となり
得られる結果も分散したものとなります。

また周りの出来事も条件となるので
周りの出来事に関係なく
幸せであることが
絶対的、無条件の幸せの実践となります。

ここに書いている実践のコツは一部ですので
(書ききれません)
絶対的幸せの実践は
私の文を見ただけでは
完璧には実践できないと思います。

だから絶対的幸せの実践よりは
(厳密に実践すると難しい。
しかし厳密にする必要がある)
自分の決めた目標を全うする道が
一番いいと思います。

そしてそれを
ひとつひとつ
完璧にやり遂げます。

やり遂げることが大切です。

根性と粘り強さと
あきらめない気持ち。


また、自分なりの実践をするコツとして
大切なことのひとつは
集中することです。

貴重な意思、思いを無駄遣いせず
実践に活かしてください。

それを本当に厳密に守れば
結果は必ず得られると思います。


どうぞ善なる実践を
がんばってね。


よって実践を本気でしている人に対して
アドバイスする時は
私の言葉は厳しいものとなることがあります。

「まだまだ甘い」と
言うかもしれません。

私は実践に人生をかけました。

私より人生をかけたなら
私以上になれるはずです。

私のやってきた実践より
厳しい実践をしている方なら
必ず結果は得られているはずです。

そして実はそういう方はそもそも
このブログは見ていないと思います。

そんな暇はないからです。

実践に集中していますから。


しかし、ブログを読んでくださって
ありがとうございます。

ブログを読んだらこのブログの内容は捨てて
どうぞ清き道を!


@(*・ω・*)ポッ







プロフィール

ラピ。

Author:ラピ。



ラピ。至る。
@(*・ω・*)ポッ

2013.5.13以降の記事が
至った後の記事となります。

それ以前の記事は
整頓して非公開にしました。

2006年12月から始めた
このブログ

かなりの記事があって
整頓するのが大変でした(笑)
皆さま今までも
どうもありがとうございました


*:--☆--:*@(*・ω・*)ポッ:--☆--:*:-



 admin






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